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歳月の鉛[詳細]

目次著者紹介関連図書関連情報書評


1970年代、若き隠遁者の日々。

1970年代のわたしを特徴づけているのは不活性と停滞であった。そしてもし人生を構成してるもろもろの時期が、ヨーロッパ中世に行われていた錬金術の過程に対応しているとすれば、その当時のわたしはニグレド、つまり鉛のように暗くて重い卑金属が、微睡(まどろ)みのなかでゆっくりと変化に向かって立ち上がろうとする時期に相当していたような気がする。(「ノオトを読む」より)




■目次より

プロローグ
ノオトを読む
第一章 荒地のキャンパス
第二章 内ゲバの記憶
第三章 ノオト1972-1974
第四章 宗教学科に進む
第五章 恣意生と円環
第六章 ノオト1974-1976
第七章 駒場に戻る
第八章 映画への情熱
第九章 ノオト1976-1978
第十章 空想旅行の探求

あとがき

索引



■著訳者紹介

四方田犬彦 (よもた・いぬひこ)
1953年生まれ。1972年東京大学文科三類に入学。宗教学を学ぶ。76年に同人文系大学院に進み、比較文学比較文化を学ぶ。博士課程を修了。ソウルの建国大学、コロンビア大学、ボローニャ大学などで客員教授、研究員を務め、現在は明治学院大学教授として映画文化史を講じる。映画と文学を中心に、都市論、アジア論、サブカルチャーをめぐって批評活動を行う。主な著書に「摩滅の賦」(筑摩書房)、「貴種と転生・中上健次」「ハイスクール1968」「先生とわたし」(新潮社)、「日本のマラーノ文学」「翻訳と雑神」(人文書院)、「アジアの中の日本映画」「日本映画と戦後の神話」(岩波書店)、「月島物語ふたたび」(工作舎)が、またエドワード・ サイード、マフムード・ダルウィーシュ、ピエル・パオロ・パリゾーニの翻訳がある。サントリー学芸賞、桑原武夫学芸賞、伊藤整文学賞などを受賞。




■関連図書(表示価格は税別)

  • 月島物語ふたたび  四方田犬彦 工作舎 2500円
  • ハイスクール1968  四方田犬彦 新潮文庫 514円
  • 先生とわたし  四方田犬彦 新潮社 1500円
  • 濃縮四方田  四方田犬彦 彩流社 3800円
  • 空想旅行の修辞学—『ガリヴァー旅行記』論  四方田犬彦 七月堂 3398円



  • ■関連情報

    同級生、久我英二さんコラム
    四方田犬彦と私
    「1枚のふる〜い雑誌のグラビアがあります。70年代に発行された、週刊エコノミスト。(中略)実はこの写真、左の二人組みの向かって右側、トンボメガネにロングのカーリーヘア、襟元にスカーフ巻いて、くたびれたベルボトム(!!)のジーンズをはいているのが、私。その隣で、花柄のシャツに同じくロングのカーリーヘア、帽子を被った男が、比較文学者・四方田犬彦です。」
    本書に実名で登場する、久我英二さん(現、マガジンハウス 執行役員第一編集局長)の2009.8.14付のコラムに、東大時代のお二人が写った週刊誌の写真とともに、本書が紹介されています。 久我英二さん 発行人のおしごと

    2009.6.25 東大コマバで刊行記念トークイベント開催  >>>
    東京大学生協駒場書籍部ではフェアも開催(5/25〜6/30)。その様子はこちら >>>

    2009.5.15 三省堂書店神保町本店 四方田犬彦×島田裕巳トークセッション開催  >>>
    4Fではブックフェアも開催。その様子はこちら >>>




    ■書評

    2009.7.24 週間読書人 海老坂 武氏書評

    感情的風土と知的高揚
    この自伝はいかなる点で評価されるべきか。第一に登場人物がすべて実名で語られていること。私は実名を伏せた<安全な>自伝とか、いつでも言い訳のできる自伝的小説というものを信用しない。
    第二に、個別の年の物語をとおして時代の味を読者に味わわせてくれること。たしかにここで語られている世界は狭い。それはほとんど東大のキャンパスに限定されている。けれども、当時のノートの断章と、このノートをもとにしたであろう語りからなるこの本の中に、あの七〇年代の感情的風土と知的高揚とをそれぞれの想いで味わい直す読者は決して少なくないはずだと、私は考えている。

    新潮 2009.8月号 戌井昭人氏書評

    包丁を研ぎ続けるような作業
    …学生とは本来、学ぶべき者である。そして、ここには、学生四方田氏の真っ当な姿がある。三日三晩かけて、セリーヌを読み終わった後に、「人生をあらかた過ごしてしまったかのような虚脱感に襲われた。」と本文にあるように、この虚脱感や疲れが、世間との折り合いによって生じたものではなく、まして、知を身につけることが、親のためでもなく、その知を何かに役立てようといった野望もない、ただ純粋なる知の欲求で、これは物凄く潔いことなのだと感じた。
    世間には物知りで知的と言われる人がいるけれど、大概はただの物知りで、知識を詰め込んだだけで、深みにはまって傷ついたり悩んだりした形跡は見えないが、四方田氏には、確実に深みにはまっていった形跡があって、そこに羨望した。それは食肉を斬るために包丁を研ぐのではなく、己の身をいつでも斬ることができるように包丁を研ぎ続けるような作業である。…

    *戌井昭人氏は鉄割アルバトロスケットの主宰/戯作者であり、「まずいスープ」が第141回芥川龍之介賞ノミネート。

    2009.7.5 世界日報 書評

    1970年代の思索的回想録
    …この時代には、連合赤軍の事件や内ゲバが頻発した時代で、著者もリアルタイムにその洗礼を受けていて、知人が殺害されるなどの衝撃的な事件に遭遇している。その事件や背景についての記録というよりも、現在から遡ってその意味やもやもやとした輪郭をなぞっていくという感じだ。
    いずれにしても、退屈もしないで奇妙な物語世界に足を踏み入れさせる魅力が本書にはある。若い時の映画エッセーなど著者の文体に慣れ親しんだ目には、やや放埒とした文体だが、それもまた、奇妙なほどこの世界に合っている。(野村淳)

    週刊現代 2009.7.18号 千葉一幹氏書評

    現代を代表する評論家の新進時代のメッセージを貫く
    沈痛な響きを噛みしめて

    四方田犬彦と同じ大学院に籍を置いた、私の年若い友人が、彼を「神々の時代」の人物を形容したことがある。四方田が修士課程の大学院生でありながら、雑誌「ユリイカ」に寄稿し、さらに自ら映画雑誌も創刊、それが鈴木清順や小沼勝、寺山修司といった人々の注目を集めたという、「神話時代」の英雄のような彼の活躍を評した言葉だ。
    この書は、右に述べたように四方田犬彦が新進気鋭の評論家として頭角を現し始めるまでの、すなわち彼の大学入学から修士課程修了までの約六年間を描いている。…

    2009.7.6 岐阜新聞、琉球新報など書評

    自我の確立にもがく70年代学生の姿
    …扱われるのは72年東大教養学部に入学してからソウルへ行く70年代末まで。激震が去り、シラケと消費主義が横行する時代へ。「遅れてきた世代」が、それでも大学に何かを求め、映画や文学を雑食するさまが描かれる。大学というるつぼに身を投じて、自我を確立しようともがく姿は、今の学生にはないものだ。
    四方田版『感情教育』。読んでいて身につまされるのは同時代を生きたからばかりではない。知への「誠実」が、若い自分と重なって、ただ初心に戻れるのだ。
    断章のように挟まれる、著者の若書きのノートもいい。優れた教養の書だ。(安岡真/共同通信)

    2009.6.28 日本経済新聞 稲賀繁美氏書評

    70年代、羽化を待つ季節の記録
    … 80年代に批評界の教祖や寵児となる人々も、次々に登場する。だが本書には著者が袂を分った過去との、和解と修復の作業がある。新帰朝者・蓮實重彦に50年代ハリウッド映画への執着を読み、松浦寿輝に才能ゆえの不幸を見据える分析には、人生への、愛憎を超えた洞察が重い。宗教学教室や幻の同人誌『シネマグラ』に屯する群像。山中貞雄『人情紙風船』と伊丹万作『赤西蠣太』上映に奔走する平野共余子への瞠目と、夭折した彌永徒史子への愛惜。あらまほしき知的女性の姿が点滅する。
    当時20歳代前半の著者の手控えには、青年の煩悶が哲学的内省と表裏一体だった様も透視される。エリアス・カネッティの『マラケシュの声』に『雨月物語』の青頭巾を連想し、衣笠貞之助『狂った一頁』をフォークナーの『響きと怒り』の冒頭に結びつけ、ドノソの『夜のみだらな鳥』に山上たつひことの類似を見る特異な鋭敏さ。ここには、越境する知性の原石が既にまざまざと露頭している。

    週刊ポスト 2009.7.10号 坪内祐三氏書評

    政治的興奮の後に「置き去り」にされた世代を描く
    …1972年の連合赤軍事件によって若者たちの政治離れは進んだ(ように見えた)。しかし実はそれがさらに陰にこもっていったのだ。四方田氏はその直撃を受けた世代だ。「1952年から53年に生まれたわたしの学年からは、新左翼セクト相互の衝突に由来する連続殺人において、目立った数の犠牲者が頻出している」。
    四方田氏が入学した東大でも、次々に犠牲者が出た。因果関係がわからぬまま、ただ(顔の見えない)上からの司令によって行なわれる殺戮とその恐怖。ある意味それは連合赤軍事件より悲惨だ。…

    ダ・ヴィンチ 2009年7月号「今月の注目本」

    60年代の学生運動を描いて話題となった『ハイスクール1968』の続編が早くも登場。70年代、大学キャンパスに広がった内ゲバの影響もあり、学生たちは内省的になっていった。…陰鬱な時代を背景に若者たちは人生を模索する。

    日販 新刊展望 2009年7月号「懐想」に四方田さん執筆

    鉛の歳月を振り返って
    …これまでの来し方を振り返り、これまでの人生のなかで解決できなかったことや、途中で探求を中止しそのまま目を逸らしてしまったことの一つひとつを拾い上げて、現在の自分の立場から見つめ直してみようと思うようになった。
    『ハイスクール1968』と『先生とわたし』という二冊の書物が、その過程で生まれた。前者は高校時代に芸術と政治の世界を覗き込んだ少年の回想であり、後者は大学でめぐりあった師にあたる人物との、邂逅から訣別にいたる物語である。こうした書物を、わたしは誰のために書いたわけでもない。ただ自分の背中に長年にわたって覆いかぶさっていた拘泥というものから、ともかくも解放されたいという一念で執筆したのである。
    このたび上梓した『歳月の鉛』はその続編、というより三部作の完結編に相当している。…これはわたしの宿命を綴った書物なのである。

    ウェブマガジンITMedia 紹介

    70年代を壮絶に生きた者たちへ
    …本書は四方田犬彦の東京大学での日々の回想録であり、当時著書が書き記していた思索ノートの断片を採録し、時代の空気感をも浮き彫りにしたものである。本のカバー写真は、かつての東大駒場寮なのだろうか。幽閉空間から一抹の光明を見出すようなイメージで、本全体がこの沈鬱な鉛の歳月を封じ込めているかのようだ。

    林哲夫氏、ブログで紹介

    一九七二年四月に東大教養学部文科三類に入学し、七九年二月に「ジョナサン・ソフィスト」という長大な修士論文を提出し終わるまで、そして韓国に向けて旅立つところまで、がテンポよく描かれている。『先生とわたし』と多少重複するところもあるが、まったく気にならない。
    七〇年代の東大を取り巻く空気、内ゲバを含めた、は手際よく処理されて印象的であるし、とくに教師たちや同世代の学生たちの人物描写は面白く読めた。…(ブログ「daily-sumus」2009.5.17)




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