12月の新刊『私たちのワンダフルライフ』
12月の新刊は、『私たちのワンダフルライフ――神経ペプチドに魅せられて』。神経ペプチド研究で世界的に知られる内分泌学者・有村章博士と妻・勝子さんが、30年にわたるアメリカ生活を振り返るエッセイです。
有村博士がアメリカ・イェール大学に留学したのは1956年。まだ戦争の傷跡が残り、1ドル360円、外貨の持ち出し最高額が10ドルだった時代でした。その10ドルを携えてアメリカに渡ったときをこう綴っています。
この時、生まれて初めて飛行機に乗ったわけですが、まだプロペラ機でした。航続距離が短いので、給油のためにまずグアム島に降りました。強烈な日光の下、真っ青な海、あちこちに座礁したままの船が戦争の跡をまだ生々しく留めていました。ハワイでは名古屋の友達のいた病院のレジデント宿舎に泊めてもらい、畑の中で食べたパイナップルとアイスクリームが、日本での食べ物に比べてとても豪華に思えて美味しかったことを覚えています。…
このようにやわらかな筆致で綴られます。
翌年、勝子さんは貨物船にゆられて単身渡米し、お見合いで3、4回あっただけの章博士と結婚しました。日本は少し豊かになり15ドル持ちだすことができました。ニューヘイヴンのイェール大学からニューオーリンズのチューレン大学へ。サザーンホスピタリティに接した後、日本に帰国し章博士は北海道大学での助手となりますが給料は10分の1に。医者となって家庭を支えるか、研究を続けるならアメリカに渡るかと考えていた矢先、シャリー博士に乞われ、再度渡米。そして、神経ペプチドLHRHの構造を解明し、1977年シャリー博士にノーベル賞をもたらしました。
1部はお二人が補い合って書いたという滞米日記。2部はより詳細に書かれた勝子さんのエッセイ、3部はシャリー博士とギルマン博士の神経ペプチドLHRHの構造解明をめぐる対決が、当事者である有村博士によって臨場感いっぱいに綴られます。
戦後のアメリカで活躍し、日米の文化交流に尽力し、後進を育て、たえずお互いを励まし合った類い稀な夫婦。勝子さんはアメリカで本格的に絵を学び、表紙の絵は勝子さんが描いた有村博士の絵です。
発売は12月中旬予定。どうぞお楽しみに。
■目次より
巻頭 ふたりのアルバム第1部 私たちの滞米日記 有村章・有村勝子
1 神経ペプチド研究に魅せられて
2 新婚生活
3 シャリー、ギルマン両博士との出会い
4 シャリー博士のもとでLHRHの構造解明
第2部 研究ざんまい・暮らしざんまい 有村勝子
1 めぐり会い
2 ニューヘイヴンでの新婚生活
3 初めてのニューオーリンズ
4 札幌での日々
5 シャリー博士にノーベル賞をもたらしたLHRHの解明
6 日米協力生物医学研究所設立
7 最後の実験
第3部 神経ペプチド研究のルーツ 有村章
1 父との須磨の思い出
2 視床下部、下垂体系の内分泌調整―その研究史
■著者紹介: 有村 章(ありむら・あきら)
11923年、神戸市生まれ。旧制七高(現・鹿児島大学)、名古屋大学医学部卒業後、56年、イェール大学医学部生理学教室に留学。ニューオーリンズのチューレン大学で3年過ごした後、帰国し北海道大学生理学教室の助手となる。65年、チューレン大学教授となったA・シャリー博士の招きで再渡米。71年、馬場義彦、松尾壽之と協力して黄体化ホルモンの分泌をひきおこす神経ペプチドLHRHの構造を解明し、77年、シャリー博士にノーベル生理学・医学賞をもたらす。世界で最も論文が引用された日本人科学者としても注目を浴びる (1965-72)。
85年、日本の財界の協力を得てチューレン大学日米協力生物医学研究所を創立。所長として研究を率先し、89年、脳疾患への応用が期待されるPACAP(下垂体アデニル酸シクラーゼ活性化ポリペプチド)を発見。93年以来、PACAPをテーマとする国際学会が二年ごとに世界各地をめぐりながら開催されている。 2007年12月10日、ニューオーリンズの自宅にて永眠。
有村勝子(ありむら・かつこ)
1933年、浜松市生まれ。東京女子大学英米文学科卒業後、東京YWCA幹事に就職。56年、留学をひかえた有村章と婚約。翌年、単身渡米して結婚。日本語教師、イェール大学およびチューレン大学技術員、生け花教師として活躍。札幌時代には生け花インターナショナル札幌支部を設立、再渡米後に同ニューオーリンズ支部を設立し支部長もつとめる(1979-80)。70年、ニューオーリンズ日本語補習校を設立して教師に就任。チューレン大学ニューカムカレッジ芸術学部に入学し、デッサン、油絵、彫刻などを学ぶ(1973-77)。 85年、生け花インターナショナル北米大会を会長として開催。
2011年、APAS(アジア太平洋アメリカ協会)より、フランク原賞受賞。VIP/PACAP関連ペプチド国際シンポジウムには、第1回より7回まで夫婦そろって参加。章没後も、鹿児島(第9回)、ペーチ(第11回)、カッパドキア(第12回)に参加し各地の研究者と親交を重ねている。