普通のデザイン[詳細]
美しさを忘れた日本人。
普通のデザインなどというと、
「そもそもデザインとは普通でない特別なことを目指すのではないか」、
あるいは、
「普通というテーマはデザインの主旨にはずれるのではないか」
というような疑問を持たれるでしょう。
…普通が退屈であると考える思考の背景には、
近代がつくり出したステレオタイプがあります。
今日の私たちの生活の周辺、
あるいはデザインに目を向けてみると、
あまりにも過剰なデザインの氾濫が、
都市環境、生活文化を侵していることに気がつきます。
(本文より)
■目次より |
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日本の現代デザインの固有性
靴を脱ぐ文化と坐る文化
仏教的世界観と日本固有の風土
日本人の死生観
マレビトとしてのカミ
外来文化との共生
日本における空間の特性
◎床の重視◎仕切りの構造◎仮設文化
◎水平の感覚◎空白の領域
第二章 方法の記憶——変化、微細、いま
日本固有の方法
茶の湯とは何か
「殿中茶の湯」から「わび茶」へ
茶室という建築
山中の山居
囲み
微細なものに目を向ける感覚
「変化の相」としての空間
文化の根源へ
第三章 弱さのデザイン——ウィーク・モダニティ
弱さの背景
弱さの多様性
「弱さ」という感覚世界
弱さをめぐる考察
「弱さ」という感覚世界を生みだす状況や状態
◎自然性◎可変性◎瞬間性◎境界性あるいは周縁性
◎フラグメントあるいは断片性◎装飾性
◎身体性◎記憶性◎日常性
「弱さ」という感覚世界のデザイン・ボキャブラリー
◎微細性◎不明瞭性◎非固定性◎有機性
第四章 普通のデザイン——時間、空間、記憶、自然
普通とは何か
◎普通をめぐって◎デザインと時間
◎時間と空間◎記憶とデザイン
◎デザインと自然
近代がつくり出した文化
◎科学万能主義的世界観
◎近代化とは何か
◎アヴァンギャルドの思考
日常性・身体性の回復
◎普通に関する考察
◎近代合理主義によって失われた普通
◎美は普通のなかにある
おわりに…デザインと1968年問題
■関連図書(表示価格は税別) |
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■関連情報 |
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●2007.10.20〜12.16 名古屋で内田繁展
内田繁氏の展覧会「茶の湯 内田繁の世界」が、名古屋・古川美術館 爲三郎記念館にて開催。この爲三郎記念館は茶事を目的に昭和初期に建てられた伝統的な数寄屋空間。内田デザインの茶の湯道具と、数寄屋空間の総合演出で、内田繁の世界が広がります。また、内田氏講演会や茶会も開催。
●2007.9.12〜25 新宿・高島屋で内田繁ら展覧会
新宿・高島屋11Fでの「千住博・湯浅法子・内田繁の[風・水・光 和樂な露地]三人展」に、内田繁氏の3つの茶室が展示されました。茶室までの道が露地に見立てられ、露地や茶室には日本画家・千住博氏の絵画や、南宗瓶華・湯浅法子さんの花などがあしらわれ、幽玄な雰囲気を演出。9月15日(土)には内田繁氏×山口智子さんのトークショーも開催。
■書評 |
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●建築技術 2007.11月号 藤森泰司氏(家具デザイナー)書評
それぞれの「普通」
…デザインの評価に対して「普通だね」というのは、大概の場合、退屈だとか、面白くないことの同義語として、どこか否定的な意味で使われることが多い。氏の言葉を借りれば、そう考える思考の背景には、近代がつくり出したステレオタイプがあるという。「デザイン」とは、ほかと違ったもの、何か特別なもの、驚くようなものでなければならず、デザインをする側であるデザイナーも、同様の意識が強迫観念としてつきまとう……。そして、私たちの日常生活の周辺における過剰なまでのデザインの氾濫、もはやデザインがないものがなくなっているようにも思える状況に対して、氏は「なぜもっと普通になれないのか」と続ける。日本文化への意識も、かつて普通であった日常を考察することで、切り捨ててしまってきた、生き生きとした生活のありようを現代につなげていこうとする作業にほかならない。…
●家庭画報 2007.10月号 「新刊遊楽」
デザインとは?普通とは?を考える
…それにしても、『普通のデザイン』とはかなり刺激的で、挑発的な印象がある。というのもこのタイトルは、いつしか「デザインとは特殊なもの」という思い込みをわれわれが抱え込んでいることを示唆しているからだ。…(米澤伸弥)
●DTP world 2007.10月号
…日本文化の根源性に焦点を当て、過剰なデザインが氾濫する現状との対比を行いながら、身体感覚や感性を生かした「普通のデザイン」が提唱されている。
●2007.8.19 読売新聞 高橋秀実氏書評
生活の「からっぽ」の美
…「日本では、空間はつねに『ウツ』の状態にあることが望ましいと考えられてきました」
ウツというと「鬱」を連想しがちだが、古来日本では「空」、すなわち「からっぽ」を意味していたらしい。つまり「何も入っていないがゆえに、何かによって満たされ」る予感。ウツはウツワ(器)であり、ウツロヒ(移ろい)をウツス(映す)。例えば、日本家屋は内と外の境界に、縁側や軒下などの「空白」を備える。そして室内も固定した壁ではなく、襖、障子、衝立などでやわらかく仕切る。空ゆえに融通無碍。そこに四季や歳時、客人との関係を映すことで、日々新たなウツツ(現実)を生み出す仕掛けになっていたのである。