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●グラフィックデザイナーの杉浦康平氏といえば、写植システムメーカーである写研と共にタイポグラフィの実験を繰り広げる一方、曼荼羅を一対の本に仕立てたり、また孔の空いた『人間人形時代』、天文学者と共に『立体で見る星の本』を制作するなど、斬新な発想で日本のエディトリアル・デザインを牽引してきた第一人者である。 ●杉浦氏が力を注いできたテーマに「アジア」がある。造本のみならず、著者でもある「万物照応劇場」シリーズは、1993年三省堂書店『日本のかたち・アジアのカタチ』にはじまり、NHK出版『かたち誕生』、『生命の樹・花宇宙』、講談社『宇宙を呑む』が刊行され、アジアの宇宙観を鮮やかに描き出している。 ●版元を超えながら表紙デザインを統一し、あふれんばかりの図像が散りばめられ、デザインの可能性と豊かさを味わえる贅沢な造本。昨今のアジアの出版興隆を背景に、韓国、台湾、中国にも翻訳進出を果たしている。 ●この「万物照応劇場」シリーズの最新刊『宇宙を叩く』が、2004年10月に工作舎から刊行され、杉浦氏にお話をうかがった。(2004年8月インタビュー収録) |
[宇宙を叩く]
新刊『宇宙を叩く』について
「万物照応劇場」について
展覧会&ブックデザイン論の試み
●新刊『宇宙を叩く』について
Q 『宇宙を叩く』を執筆されたきっかけは?
若い頃に実際に見た火焔太鼓との出会い、その強烈な印象です。燃えあがる火焔を模したその形、意匠は眼をうばうほどに素晴らしいものなのに、その音は貧しい。音と形があまりにもかけ離れていることに驚き、なぜか・・・と考えこみました。
それ以来、この謎が絶えず私の意識の底にくすぶっていた。20年前の夏に、休みを利用して本書の元になった小論をまとめてみました。するとそれまでの私のアジア体験が次つぎとかさなりあい、アジア音楽の本質が見えはじめました。アジアを旅行するたびに楽器に触れ、資料を探し、火焔太鼓の源流を探し続けていたからです。
その過程で、同じような賑やかな装飾をもつ中国の建鼓(けんこ)という太鼓に出会う。この二つの太鼓を核にし、アジア古来の音楽に対する思考方法に思いをはせて、一冊の本にまとめることができました。
Q 火焔太鼓の魅力とは?
楽器でありながら、その打音にあまり力点が置かれていない。むしろ、華やぐ装飾をもつ存在そのものに意味があるということです。このような太鼓は、ヨーロッパでは例をみない。ヨーロッパの音楽は音の美しさや卓越した技巧、なによりも調和的な音階音楽を目指したので、濁りのある音や雑音を排除する。それが今日の音楽の主流となっています。
しかしアジアでは、音程がゆらぎ、雑音を発する非機能的な楽器がいくつも生まれ、今なお存在している。その代表が火焔太鼓であり、建鼓です。
火焔太鼓は、右方と左方の一対の大太鼓です。その意匠は、月と太陽、鳳凰と龍、二つ巴と三つ巴・・・。いくつも対原理が潜んでいます。
舞楽の上演とともに火焔太鼓が叩かれる。神に捧げ、祖霊供養を目的とするため、必ず神の眼を楽しませる舞いがつきます。火焔太鼓はこの舞いの律動を刻む打楽器として、ゆっくりとした、むしろ間のびするようなリズムで叩かれます。舞いは人のふるまいを超え、神への捧げものとなる。もはや音楽は聴くためのものではありません。
一方、建鼓は一本の柱に貫かれ「宙に浮く大太鼓」です。柱の先端には「鳥」が羽ばたく。四方に伸びる「龍の首」から垂れ下がる「流蘇」は生命力を表わします。柱の足元は四頭の虎が取り囲み四方を睨んでいる。この建鼓を一撃する音は心柱を伝って天にもとどく、宇宙的な響きとなります。
火焔太鼓と建鼓、いずれも現代の私たちが音楽と考え、ただ楽しむ・・・というものと、音のあり方、そして舞いのあり方が、かなり遠いものになっていることがわかると思います。
Q 太鼓を通してアジアの音楽観が見えて来る…?
そうなんです。アジアにおいて音楽は、単に民衆が楽しむためのものだけではない。心を癒し、世界全体の活力を蘇らせようとする「楽」の意味が強い。
音楽を演奏する場所(方位)にも意味があり、奏でる音は天地自然をみたすさまざまな物質の響きの調和を目指し、四季の移ろいにも感応するもの。つきつめると、天地自然を充たしきる気(元気の気、インドではプラーナ)の動きに結びつく。音を生み、音を響かせる源に気やプラーナがあると考えています。
音の響きは自然の活力を増大させる。聴き手が大自然の気の流れに溶けこみ、一体化することが音楽の理想です。
つまり音を媒介にして天と地(人をふくむ)が響き合い、天と地が一体化する。これを「天人照応」といい、あるいは「天人合一」という。アジアの国々、とりわけインドや中国では、これが音楽の根本だと考えられていました。
この本は第1部の「天籟受器」で天籟(大自然の声)を聴くという楽器論、第2部は中国と韓国に伝わる「建鼓」という風変りな大太鼓を紹介し、第3部は日本が生んだ「火焔太鼓」について、その形と意味を考察しています。3つのテーマの全体は「音楽を奏し眼をも楽しませる道具」としての楽器、神話性をもつ楽の噐・・・という視点が貫きます。
耳に響く音を生みだし(楽)、眼をも捉えきるユニークな形(器)。耳と眼。音と形…その意表をつく造形性に眼を向けて、西洋にない東アジアの音の響き、音の形を考えてみました。
Q 執筆を終えられた感想は?
今回、一冊の本にまとめるにあたって一つ大きな「おまけ」がつきました。火焔太鼓と曼荼羅を関係づけることができたことです。
これまでは曼荼羅は曼荼羅論、楽器は楽器論と、それぞれの分野が分化し、専門化して出会うことがなかった。専門家は専門分野以外についての発言には慎重にならざるをえない。私はより自由な立場にあるので、火焔太鼓と曼荼羅を、私の眼でかさねてみた。
一対の曼荼羅は宇宙真理を解く図像であり、火焔太鼓がそれを音に変え、打ちだしている・・・ということが見えてきました。
●「万物照応劇場」について
Q 「万物照応劇場」シリーズは先生にとってどのような意味を持ちますか?
禅の思想家として知られる鈴木大拙が「開いた手と握った手」について語っています。西洋文化は開いた手です。5本の指が分かれそれぞれの方向に伸びてゆくように、今日の科学や文化が人間の活動を個別に進化させ、その先端が行方知らずのものになろうとしている。しかし、手の指は開くと同時に握ることもできます。握ったときにはものを掴むことができるし、五本の指が溶け合った一つの塊になる。現代でもっとも大事なことの一つは、分離して専門化した分野がもう一度大きく溶け合うことだ・・・というんです。じつに巧みな比喩だと思います。
バラバラなものが相互に関係を持ちあい、網の目のように交差しあう大きな世界がそこに顕われること。このシリーズに「万物照応劇場」という名前をつけたのは、こうした考えからです。
すべてのものは互いに、なにがしかの要素をかさねあうようにして存在している。例えば、火焔太鼓は単なる楽器ではなく、曼荼羅原理をも語りうるものであり、曼荼羅は単なる図像ではなく、人間の左半身・右半身という身体原理と結びつくものである。身体原理と結びつくことによって阿吽の呼吸にもかかわりをもち、阿吽の呼吸は音楽の世界でも間の問題として生かされている。あるいは相撲のような身体技における立ち会いの意気込みになり、相撲における白黒の勝負は陰陽という宇宙のダイナミズムを象る根本原理の顕われでもある。気の作用にも結びつき、この気の働きは音楽を生み出す源になる・・・というように。
これはいま、思いつくままに連ねてみた一例ですが、大きな円環が生まれている。この「万物照応劇場」シリーズは積みかさなれば積みかさなるほど、相互に関係を持ちあういろいろなものが見えてくることになるはずなんですね。
実は火焔太鼓と曼荼羅の関係も、次作に準備している曼荼羅論を調べているうちに見いだしたことです。
Q 読者にいちばん読んでもらいたいところは?
日本が生みだした火焔太鼓の不思議について・・・。なぜまったく似かよった二つの大太鼓が並ばなければならないのか? 目を凝らせば、いろいろな謎めいた要素が見えてきます。
しかし、この謎を解くための文献がありません。火焔太鼓に関する文献は、たとえば『楽家録』という江戸初期にまとめられた分厚い楽器論・音楽論などがあるのですが、そこでもなぜこうした意匠をもたねばならぬのかは論じられていない。
日本の芸能は、その多くのものが口伝だからです。口から口へ伝えられて記録に残らない。むしろ隠すべき秘儀であったのです。
そこで私は「なぜこのような大太鼓を生みださなければならなかったのか」と、つくり上げた人の気持ちになって見直してみたんです。自分だったらどうするか? なぜ龍や鳳凰が翔び立たなければならないのか。なぜ巴紋が渦巻くのか。なぜ鼓面の縁に剣や巴の文様を並べることになったのか? 根本に立ちかえる思考訓練をしたんですね。
『宇宙を叩く』は、資料ゼロのものに対する読み解きです。私は音楽学者でもないし、歴史家でもない。だからこそ、対象を新鮮な眼で見つめなおすことができたのではないかと思っています。謎を求め、発見する「眼の喜び」を、読む人にも感じとってほしいと願っています。
●展覧会&ブックデザイン論の試み
Q 10月5日(註)からギンザ・グラフィク・ギャラリー(ggg)で先生の展覧会が始まりますね?
私と私のスタッフが作ってきた、これまでの雑誌のデザインを集めたものです。「遊」「エピステーメー」「SD」「都市住宅」「銀花」「噂の真相」・・・など。古いので冊数がほとんど残っていないので、表紙だけを見てもらうことになります。表紙からデザインの変遷がうまく浮かび上がればいいのですが、皆さんがどう感じてくださるか、予想がつきません。
私は、雑誌は社会に出たとき、刊行された瞬間がいちばんの旬だと考えています。雑誌に限らず、およそデザインにはすべて旬がある。ポスターは、最初に貼りだされた場所・時間での社会との関わりに意味がある・・・というのが私の主張でした。過去の作品を集めて、果たしてどう見えるのか・・・。
そうした懸念もあって、今までは作品をまとめて展示することはしなかった。本にまとめて出すことも、あまりしないでいました。だが考えなおして、これまでの作品全体をふりかえってみると、私なりのその時どきの思考過程が見えてくる。また数多い作品には、私だけでなく、スタッフ全員の若いエネルギーも詰まっています。次の世代の人たちです。それを未整理・未発表のままで封じてしまうのはいけないのではないか・・・と考えるようになりました。
そこでこれからは、分野ごとに整理がつき次第、展示していこうと考えています。今回の雑誌の展示は、その第1回目になります。
Q 本ではブックデザインをまとめた『造本の宇宙(仮)』が、工作舎より準備中ですが?
上下2分冊におよぶブックデザイン論です。これまでブックデザイン集はあっても「論」となる本は少ないと思います。だがこの本は「論」として書きおろしたのではなく、対話による「論」なので(聞き手は、装丁評論家の臼田捷治氏と編集者の安達史人氏)、話題はあちこちに飛びがちですが、読みやすい展開になるでしょう。
2冊の本を、それこそ火焔太鼓のように一対のものとしてデザインすることによって、それまで見えなかったデザインの面白さが見えてきたりします。次のような全部で12ほどの切り口を用意して、私自身のブックデザイン論を展開しています。
[白い紙は使わない]
[色紙を積層させる]
[小口(紙の堆積)に内容が滲みだす]
[ノイズのなかから生まれでる]
[自己組織化するノイズ]
[ざわめく色、きらめく箔]
[変幻自在の容器をつくる・・・]
[アジアの宇宙観・世界観を包みこむ・・・]
[ゆらぎ、うつろうデザイン・・・]
[銀花・エピステーメー.雑誌の貌をいろどる・・・]
[対をなすデザイン・・・]
[タイポグラフィ、エディトリアルについて・・・]
通常のハウツー的な発想とはかなり異なる語り口なので、意表をつかれることも多いでしょう。
デザインにあたって私はいつも、より新しい座標軸に向かおうとしています。
註:「疾風迅雷—杉浦康平 雑誌デザインの半世紀展」は東京・ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)にて2004年10月5日〜30日開催され、大反響を呼びました。 その後、大阪dddギャラリー(2005.1/12〜2/7)、4月に名古屋・国際デザインセンター(2005.4/22〜5/15)、6月に福岡アジア美術館へ巡回しました。