2.事件の展開
この時この本にどのような問題があるのか、なにか具体的な予想をしていたわけではない。しかし有名な本のタイトルを黙って借用し、それに一切触れないなどということをする人物はほかにも何かおかしなことをしているに違いないという確信はあった。問題点をできるだけ早く見つけるために、まずはわたくしの専門部分、つまり18世紀フランスの科学史について書かれた部分(化学革命の父、ラヴワジエの妻であったラヴワジエ夫人、ニュートンの『プリンキピア』唯一の仏訳者であるデュ・シャトレ夫人の部分)を読むことにした。
ここで驚くなかれ、大発見をしたのである。ラヴワジエ夫人の部分に、何とわたくしは、自分の文章を発見したのだ。
まず、大江本:
「実はマリ=アンヌの早婚には事情がある。彼女が十二歳の頃に、財務総監テレ師が三七歳も年上で財産もなく評判も悪い(自分の愛人の弟)ダメルヴァル伯爵との縁談をもちかけてきたのだ。この理不尽な申し出を断るには誰かと結婚させてしまうしかないと思った父は、同僚でもあり、科学アカデミーの助会員で将来性ある青年ラボアジエに白羽の矢を立てたのである。[...]おそらく新婚の時点で、この幼な妻は十五歳年長の学者の夫によって、研究の道へと引き込まれている(大江本, p.150)」。
次に川島論文:
「実はマリー・アンヌの早婚には事情がある。彼女が12歳の頃に、テレ師がポールズに奇妙な縁談をもちかけたのである。相手はなんと37歳も年上で−これは当時としても相当の年齢差だが−財産もなく評判も悪い(テレ師の愛人の弟)ダメルヴァル伯爵である。[...]
ともかくも、娘をこの縁談からのがすには,誰かと結婚させてしまうのが確実だと思ったポールズは、同僚でもあり、科学アカデミーの助会員で将来有望な28歳の青年、アントワーヌ・ローラン・ラヴワジエを選んだ。[...]おそらく新婚の時点で、この幼な妻は15歳年長の学者の夫によって、彼の研究に引き込まれている(川島論文, 2004, pp.66-67)」。
切り貼りはしているものの、紛うかたなき川島論文からの文章の借用である。見てわかるように、引用したということわりは一切ない。しかも参考文献のページに川島慶子の名前は存在しない。すぐさま怒り狂ったのだが、よく見るとこの論文が載っている「『化学史研究』第31巻 第2号」(大江本, p.263)という記載はある。こんなおかしな記載方法があっていいのか。論文を挙げる場合は作者名とタイトル、雑誌名、巻号、年代を全部記載するのが常識である。これでは大学生のレポート以下ではないか!
ともかく引用符もなしに他人の文章を借用するのは著作権法違反である。分量が少ないので裁判で勝てるケースではないが、作者自身が抗議すれば講談社側としても無回答ではいられないだろう。ここにいたって私はついに直接の被害者となったのである。
そこで抗議文を講談社社長宛てに送ることにした(1)。先に十川さんも担当編集者あてに抗議文を送っていた(2)。そして当初からこの問題に義憤を感じていた仲間も、一科学史研究者としての立場で講談社に抗議文を送ってくれた。さあ、回答待ちだ。
返事を待っている間にも大江本の調査は続行していた。というのも、すでにあちこちの新聞や雑誌でこの本が好意的に紹介され始めていたからである。できるだけ早く次の手を打たないと、この本が「女性の味方」の本として認知されてしまう。十川さんはじめわれわれ3人は、この時点ではもう「絶対に問題はこれだけではないはず」という確信を持っていた。まず最初に重大発見をしたのは小川さんである。彼女はブルーバックスだけでなく、大江氏がこの本を書く前に同じテーマで12回にわたって雑誌連載した記事の調査を思いついたのである。そしてこの調査こそが驚くべき事実を明らかにしたのであった。
なんと「科学を支えた女性たち」というテーマで『未来材料』という雑誌に連載された記事(以下、「大江記事」とも略)から、ブルーバックスの比ではない分量の盗用が発見されたのだ。小川さんはここで自分の文章が何行にわたっても丸写しされているのを発見する。もちろん出典については何の言及もなされていない。しかもここで盗用された小川さんのテーマは、彼女の見解が洗練されるにつれ、大江氏の見解も洗練されるという進化過程をたどっているのである(3)。そしてこれは盗用全体のホンの一部でしかないのだ。
われわれがこの調査をおこなっていたころ、やっと講談社から回答が来た。信じられない内容だった。何と担当編集者は(わたくしの文章をうつしたことや、工作舎本のタイトルを無断借用したことへの謝罪と対策については書いてあったが)大江氏はシービンガーの本については原典、翻訳ともに読んだこともなく、他の工作舎の翻訳の存在も知らなかったと書いてきたのである。このインターネット時代に、邦訳があることも調査せず、こんなテーマの本を書いたのか? わざわざ参考文献でいくつかの欧米のサイトを紹介しているのに、日本のことは一切調べなかったとでも? そんなことがあるだろうか?
ここで新たなことが判明した。見つけたのは十川さんだ。工作舎から出ている『お母さん、ノーベル賞をもらう』のマグレインの原本と大江本との比較から、大江氏が工作舎の翻訳を本当に知らなかったことがわかったのである。なぜか。なんと大江氏は英語の原本を自分で翻訳し(もちろん引用符は一切なく、あたかも大江氏自身の文章のようになっているが)、しかもその翻訳がいたるところで間違っていたのである(4)。「大江氏も担当編集者もウソはついていない。彼らは本当に翻訳の存在を知らなかったのだ」われわれは確信した。しかし今度は別の怒りが沸き起こってきた。盗用問題は別として、こんな基本文献も知らない人間が堂々とこの分野の専門家のような顔をしてブルーバックスを書くのか。ブルーバックスは私の中学・高校時代の愛読書だった。それは私に科学への夢を育んでくれたのだ。新しい本が出るのはいつも楽しみだった。あのブルーバックスがいつの間にこんなことに...
ともかく、すでに工作舎がお金を払って版権をとっているマグレインの本の文章を黙って(しかも間違って)翻訳し、そのことに一切触れていないというのは、国際的な著作権法違反である。ここにいたってついにこの問題は国際問題にまで発展したのである。
このあたりまでは、わたくしたちはこの問題を主にジェンダー問題の枠内でとらえていた。というのも、発見された被害者は、われわれ自身も含めてみんな女性(それも主に日本人女性)だったからである。本のテーマがテーマだけにわれわれの意識がそこに集中したのは当然といえば当然だったが、よく考えるとここまで常識はずれのことをする人間が「女だけをターゲットに盗用を働く」はずはなかった。盗用は実は手当たり次第だったのである。
わたくしはとりあえずここまでの調査でわかったことを整理してみた。まず
1)大江氏は無防備である(盗用を巧妙に隠したりしていない)。
2)大江氏は英語がそんなに得意ではない。
3)大江氏はたぶんフランス語は読めない。というのも、彼はデュ・シャトレ夫人について、英仏文両方のホームページを挙げているが(大江本, p.262)、フランス語版を読んでいる気配がない。
そしてたぶん、
4)大江氏は、現代はともかく、18世紀以前の話には本当の意味での興味、関心はない。
だとしたら、古い話にほど、安易な盗用が見られるはずである。私は再びラヴワジエ夫人の部分に着目した。というのも、夫人に関する内容は明らかに私の論文から得た知識だが、ラヴワジエに関してはそうではなかったからだ。これも日本語からの知識に違いない。そこで後ろの参考文献を見ると、あるある、中川鶴太郎著『ラヴワジエ』(清水書院)という本が載っている。さっそく取り寄せて読んでみた。ここで恥ずかしながら告白すると、私はこの時代の専門家でありながら、この本の存在を知らなかった。ところがこれは志の高い名著だったのである。この本との出会いを用意してくれたことに関しては大江氏に感謝している。ご興味のある方はぜひご一読を。
で、話は戻るが、この本と大江本、大江記事を比べてみた。そうしたら出るわ出るわで、とりわけ『未来材料』の方にものすごい量の盗用が発見されたのである(5)。男性の被害者発見!中川氏に連絡をとろうとしたら、すでに故人であった。仕方がないので清水書院に手紙を書き、事の次第を伝えたのである。もちろん先方は驚き、講談社に抗議するとの返事が来た(この先の具体的な仔細は知らない)。
さらに調査を進めると、やはり参考文献にあった翻訳『男装の科学者たち』からも大量の盗用が発見された(6)。この本は女性2人、男性1人で翻訳している。またまた男性の被害者発見、というわけだ。これについては小川さんも同様の調査をしており、翻訳者たちには彼女が連絡をとることになった。
もっと調査しても良かったが、もう十分だった。ここまでだけで確実に司法の場でも勝てる。わたくしたち3人はそれぞれが調べたことをばらばらに講談社に伝え、このブルーバックスの回収・絶版を要求したのである(7)(8)。わたくしはこの第二の抗議文(7)で、大江氏のもうひとつのブルーバックス『早すぎた発見、忘れられし論文』についても調査するよう講談社に示唆した。これが大江氏の「仕事」なら、たぶんジェンダーとは何の関係もない他の作品でも同様のことが行われている可能性が高いと踏んだからである。
わたくしたちは返事を待った。もう講談社も逃げられまい。あとは「いつ」決断するかだけだ。待つことおよそ20日。ついに3月8日、講談社は大江氏が書いた2冊のブルーバックスを、著作権法違反の本として認め、これの回収・絶版を決定した。このニュースは3月10日に四大紙他のメディアで報道された(ネットのニュースは主に3月9日)。やっぱりもうひとつの本でも同じ「仕事」がなされていたのだ。とりあえず私たちは目的を達成したのだ。
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