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土星の環インタビュー

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土星


#006

ミュージシャン・文筆家 山崎春美さん

異端児の激白
「どうして工作舎に行ったか」なんて35年前のことを聞かないでくれ




山崎春美さん


山崎春美。80年代、伝説的な前衛ロックバンド「ガセネタ」「タコ」で異才を発揮。並行して、自販機雑誌『Jam』および後継誌『HEAVEN』にてライター・編集者としても活躍。その合間の79年に遊塾生となり、『遊』組本「は組」編集に参画。しかし半年後には工作舎を去る。90年代後半から大阪で家業を継ぎ音楽界・出版界から遠ざかっていたが、2012年より活動再開。工作舎とは13年秋のセシル・テイラー公演で再会後交流が深まり、『デレク・ベイリー』関連イベントではさまざまに協力いただく。


工作舎に現れた春美さんは、遊塾同期の米澤敬編集長に用事があった。『遊』当時の雑談をしていた米澤編集長にそのままインタビューに参加してもらう。

 —— 『遊』の頃についてお話しください。

山崎春美  いちばん覚えているのが、工作舎にタモリが来て帰るときに、玄関で松岡さんに「お前、お辞儀をしろ」って言われたこと。ぼーっと見ていたから。

 —— 『遊』組本「は組」のインタビューでタモリが来たんですよね。そのとき、どうでした? 大物感があったんですか?

米澤  松岡さんのほうが堂々としていて、あえて言うなら大物っぽい。

山崎春美  そういう言い方をすれば大物感というのもひとつのスタイルだから、そこはなんというか。タモリは博識で、そういう感じじゃないですよ。

米澤  ふつうのおじさん。

 —— ふつうというと、気さくな感じですか?

山崎春美   たぶん気さく。

米澤  オーラという感じはないね。

山崎春美   消すほうがうまいんじゃないですか、あったとしても。

 —— それって逆にすごいですね。

山崎春美   去年、僕の本(『天國のをりものが』河出書房新社)の刊行記念イベントをドミューンでやったんですが[2013.11.18]、『エレキング』という雑誌の3人とのトークで、一人が松村正人君という『スタジオ・ボイス』最後の編集長でいちばん若い。三田格が真ん中で何でも好きなことを言う役。いちばん上の野田努君はレイヴ、ハウスみたいな最先端の音楽の本を出している。
昔、三田君からヴォネガットの原稿依頼があって書いたんです。複数の執筆者がいる単行本で、フィリップ・K・ディック読本[『あぶくの城 フィリップ・K.ディックの研究読本』北宋社/1983年]に続く2冊目がカート・ヴォネガットジュニアの読本[『吾が魂のイロニー カート・ヴォネガットJr.の研究読本』北宋社/1984年]。なんでディックじゃないんだと思って、ディックは『宝島』で野々村文宏とか新人類がガンガンやっていた頃だから、僕はディックが得意なのにみたいな気持ちがあったんだけど、まあまヴォネガットも無事に書きあげて掲載されています。

山崎春美さん

なんでこんな話が出てくるのかというと、湯浅学さんも来てくれて、湯浅さんは昔は根本敬といっしょに「名盤解放同盟」とかかなりえげつない、知らないか、えげつないことやって、バブルくらいまでテレビにも出演していたんですけど、三田君と3人で話していて、僕は自販機雑誌(『Jam』『HEAVEN』)出身で、湯浅さんは『ミュージックマガジン』で書いていて、『ミュージックマガジン』は音楽一般全般、今でいうとワールドミュージックを扱っている。去年『ボブ・ディラン』という岩波新書を出して、これで岩波文化人だと言っていますがね。
で、ええーとなんだっけ、だからたとえばグルジエフとかクローリーとか喋っていると、三田君にグルジエフなんていう名前を聞いたのは何年ぶりかと言われたりしてたんだけど、だいぶ飲んだ後に、三田君が僕に寺山修司に会いに行ったときの話をしてくれました。

僕もその前、1年くらい前に『HEAVEN』最終号で寺山修司インタビューをしていたんですね。最終号は結局出なかったけれど、肥満の特集をするつもりで、寺山さんのところに行って変なことを喋った。病気で最初はダメだと言われたけれど、人を介して会わせてもらって、寺山さんは『HEAVEN』もよく知っていました。
その次の年に三田君が寺山さんの家にいきなり行ったら、田中未知さんにめちゃくちゃ怒られたそうです。怒られたけれど、いろいろ語ってくれたんですって。そのときに「寺山修司が松岡正剛だけは信用するなよ」と言ったと。
それを聞いて、ちょっと待ってと。僕もよくあるんだけれど、それ、死ぬ間際でしょ、二人で喋っているでしょ、ほんとうは何を言ったのかわからない、僕だって作れるからね、いや自分でもよくあったんです。もう死んじゃったら、あと何があるのか。
それとそういう言い方っていうのは、さっきも大物の話があったけれど、いかにもそういうやり方もあるじゃないですか。[寺山修司にそう言わせるほど、松岡は大物なんだぞという]そういう大物の在り方もあるけれど、反対にそういう批評的なもので、意味をなしていないじゃないですか。「なぜそうなのか」がない。
それって何かの文脈でそういう話がつながっていた上での話なのか、ちゃんと聞いてみないとわからない、というのがあってね。

竹田賢一さんの本(『地表に蠢く音楽ども』月曜社)も去年やっと出て、久々に本を出した者同士で、池袋のジュンク堂書店でトークをやったんですね[2013.10.19]。トークで「質問をどうぞ」と呼びかけてもあんまり出ないんですよね。
紀伊國屋書店のイベント[2013.9.27]のときもそう。若い子がやっと質問したと思ったら「クスリとかやっているんですか?」って。「ないですよ」で終わりですけれど。

そういう話じゃなくて戻って、そうそう質問というと、知り合いで園田佐登志という男がいる。『遊』の連載「ローカスフォーカス」の吉祥寺でマイナーとか羅宇屋を書いた園田は、明治大学現代の音楽ゼミナールをつくって、そこで「ガセネタ」や竹田賢一さん、灰野敬二さんとも知り合ったんですが、明治大学というのは名ばかりで中央大学の学生もいれば関係ない学校の人も集まっていて、その中に向井さんという人がいたんです。

その向井さんがジュンク堂のイベントに来て、質問してくれたんですけど、質問はシンプルで「どうして工作舎に行ったのか」と。今の人はなんじゃその質問は、と思うのかどうかよ。この間ドミューンのイベント[『デレク・ベイリー』刊行記念2014.2.17]が終わった後に森下さん(知、工作舎)に僕がね、「ずいぶん誤解とかあるでしょ」と言ったら、「誤解があるなんてレベルじゃないわよ」と言ってました。それがどのくらいリアリティあるのか、そこがわからない。
『遊』や工作舎への世間一般からの誤解は感じているの? それで今との比較ができる。松岡正剛という、いわゆるカリスマ的な人が抜けた後ですから。

 —— 普通の出版社になっちゃったね、とは言われます。そのあたりも含めて、ちゃんと見直したほうがいいんだろうと。私は93年に入社しましたが、工作舎は『遊』時代とは別の会社と感じています。

米澤  普通の会社にしようと頑張ったんだよ。でも普通の会社になりきれなくて、儲からないという話。

 —— ここにきて米澤編集長が松岡さんの本『にほんとニッポン(仮)』を出すということで、きちんと覚悟して『遊』と向き合って、読者に対してアピールできるかわからないけれども何かうごめいてみようかなと。

山崎春美   そういうことでしたか。

 —— 『遊』をリアルタイムで読んでいた赤田祐一さん(#003)、古本屋で知ったばるぼらさん(#004)と、それぞれ違う観点からお話をいただきました。春美さんはそれこそ『遊』の中で活動されていたので、思うままに語っていただくのがいいのかなと思いました。

山崎春美さん

春美   この間、『ベイリー』刊行記念の新宿ブックユニオンでの、木幡和枝さんと大熊ワタル君のイベント[2014.1.17]に行ったんですね。打ち上げの途中で灰皿を取りに行って帰って来たら、木幡さんが「思い出した、山崎春美だ!」って。それまでずっとしゃべっているのに。

 —— 『遊』の頃は木幡さんとの交流はどうだったのですか?

山崎春美   木幡さんとはあまり。僕はRチームだから。

米澤  木幡さんはFチームで、Fチームはちょっと近付き難い感じがあった。

山崎春美   だって仕事しているって感じ。いちばんお金に直結して。

米澤  いちばんプロっぽかった。広告代理店と仕事をしているから、背広着てネクタイして普通のスーツを着て。Fチームはわりと洗練されたような感じの人が多かった、社会的にみてね。

山崎春美   荒俣(宏)さんはRのミーティングのときはふつうに座っていました。荒俣さんはデカいから覚えてる。2期って79年間の1年間とちょいでしょ。そこは最高に密度が高かった。

米澤  毎日何かしらあったよね。

山崎春美   すごいすよね。だからあの陣容で2期がもし続いていたらと思う。杉浦さんがかかわっていないけれど、フォーマットが杉浦さんだから。

米澤  だから2期は最後まで密度感を保つことができた。3期になって、きのうも松岡さんとその話になって、2期を続けていればもう少しよくなったと。

 —— なんでやめちゃったんでしょうね?

米澤  ひとつは隔月でしょ、第三種郵便をとるには年間最低10冊出さないといけない。

山崎春美   流通を日販、トーハン、栗田、大阪屋、そういう取次が仕切っているんですね。

米澤  組本「ち」「は」「へ」があって、なんとか10冊。隔月では広告は難しい、と営業で言われていたんだと思う。月刊にすれば広告も入るし、経営が安定するだろうし。ということで月刊にしたんだと思う。松岡さんもけっこう疲れたんじゃないかな。

山崎春美   時期尚早だったんですよね。そりゃ2期のままつくっていったら。

米澤  3期になって、僕と後藤と宮野尾が特集の編集をするようになって、みんな松岡さんが出した方針にのっとってやっているつもりだった。要するに1期2期を見てきてそういうのをつくりたいと工作舎に来た連中だから。松岡さんが3期はこういう方針だからと出したものがちょっと違うんじゃないかとみんな思いながらやっていた。

山崎春美   コンセプト以外にあるんですか? コンセプトは松岡さんが出していると思うんだけれども。要するに、1期は内の時代で、内と外とが浸透圧あるのが2期で、3期はついに、という言い方がよくされていますね。

米澤  3期は大衆路線に走った。打って出るための作戦として松岡さんはああいうフォーマットで、ああいうくくりでああいうデザインでやっていって、とくに若手のオレとか、宮野尾、後藤を前面に出していったほうがアピールするだろうな、という計算をした。松岡さんにしてはポップという感じなんだけど。

山崎春美   ポップというか単にレベルを下げているだけだった。ページがスカスカになっちゃった。

米澤  密度感はなくなるわ、迷いが前面に出てきているし、編集もデザインも。

山崎春美   2期が早すぎるくらいによかったんですね。それを今の人に話をしても伝わらない。「『遊』を見ればわかるだろう」とはとても言えないし。「『遊』のここを見れば」くらい言えばわかってもらえるかどうか。でもその当時の時代背景に生きていないし、誰も当然わからないでしょ。ソビエトがなくなるなんて思わない時代ですからね。

米澤  だから編工研(松岡さんの会社、編集工学研究所)の連中も、新宿の松岡さんとのイベント[「山崎春美のこむらがえる夜」第一夜 2014.4.11]に来ていたけれど、当時の工作舎だったら自分は1週間で辞めるだろうって言ってましたね。

山崎春美   それは何? 生活との共存? ブラック企業だと言っているわけ?  僕の周りで急先鋒的に批判している佐内順一郎(『Jam』『HEAVEN』編集長)とかはいいんだけれども、美沢真之助(『Jam』『HEAVEN』編集部)さんがね。ファンだと言っていたけれど、松岡さんに裏切られたと。彼からみたらね。

美沢さんという人は、そんなに出しゃばるほうじゃないけれども、ものすごい何か筋の通ったものをずっと持っているような人だから『Jam』『HEAVEN』が成立した。ものすごいシリアスなことも書ける。ビート族、ヒッピー、ロックもすごい好きだった。雑誌の背骨みたいな人。フォーラムインターナショナルの村田恵子さんと結婚すると変わっちゃった。フォーラムインターナショナルの人たちはいいんですよ。C+Fの吉福伸逸さんが何を言ってもいいんです。マンガ評論をやっている福本も何かのインタビューで、「尊敬しているのは松岡さん」と言っていましたね。要するに彼らはいいんだけれど、まじめにやっているというと変だけれども、俺がシリアスかどうかは別にして、なんだろう、そういう人らの批判はずいぶんあって、もっとひどい人はいっぱいいるんですよね、音楽に限っていうと。どうしようもない人。

灰野敬二さんが高橋悠治の息子をばあーっと蹴って「音楽はゴスペルだ!」みたいなことを叫んで、みんなシーンとなって中島が僕の横に飛んできて、この方はどういうお方ですかととぼけたことを言った、というシチュエーションで、ぱっと見るとハイライトをすごく斜に構えて「はいはい」という表情。「はいはい」というのと斜に構えているところはよく覚えているね。灰野さんを間章の葬式に連れて行きましたからね。灰野さんがどういう人かというと、葬式に行ってみんな泣いたりしているうちに、ドアを開けて灰野さんは「僕、不失者」って。「不失者」って誰もわからないでしょ。あの人が面白いのはわかります?

世の中で普通にやっていて、すごくカッコいいことが本当にあるのかと、僕は疑問に思っています。その前に阿木譲さんのでたらめさを話しておきます。さっきのレベルじゃない。昔「こうして毎月何十万も印刷で行ったりきたりしていたら人間食えるんだ」と言っていて、「それは違うだろう」と思っていました。赤字が増えているだけだから。もっと後、町田(康)が芥川賞をとった後に、『日本ロック雑誌クロニクル』という本が太田出版から出たんです。中村とうようの『ミュージック・マガジン』、渋谷陽一の『ロッキング・オン』、僕もちょっと載っていたけど、いちばん最後に阿木さんの『ロック・マガジン』。そのイベントが大阪であって僕も話したんですが、そこで阿木さんが「日本のパンクは結論が出たわけだから」と発言するんですね。びっくりするでしょ。で、「なんですか?」と聞くと、「町田町蔵[町田康のミュージシャン名]だ」と。「これがパンクなんだから」と。意味がわからないよ。

[春美さんは、阿木さんが編集長を務める『ロック・マガジン』に高校生の頃、編集・執筆等を手伝った]。今でも反省しているのが、「僕は」と書いてあって、また「僕は」と出てくるので、明らかに文法がおかしい。直すじゃないですか。「春美、直すのは別にいいけど、僕の文体の魅力をわかっていないなあ」。
「僕は」を何回もつけるのはそのほうがリアリティが出ると言うんですね、阿木さん的な人は。だから文章の最後にも「僕は」とくるわけです。

ある人が「保坂和志の文章を読んでいて何か既視感があるなあと思ったのが山崎春美がしゃべっているのに似ている。それぞれ違うんだけど、言っていることはわからないんだけれども後からわかる」と書いてくれました。それで保坂和志の本を読んだけど、最初の3行目で文法がおかしいんですよ。誰が読んでも主語が途中で変わっている。人に聞いたら、「これわざとだよ」と。「わざとってどういう意味ですか?」って聞くと、「最初賞をとったときは文法はとおっていたから、今のはわざとだよ」と。文学だからよくわからない。

僕が言いたいことは、人の粗をさがして生きているわけでもないので、そうせざるを得ないこともあるでしょうけど、ただでさえ世間的にマイナスに見られることを一手に引き受けてやっていたら、そんなことは別にいいじゃないというのもおかしいし、それも本質のひとつだろうと思う。そういう小集団があってなんの矛盾もなく素晴らしいことを続けていくなんて、そんなことがあるはずないだろう。

アンジェイ・ワイダという監督は『灰とダイヤモンド』が有名だけれど、『大理石の男』ではレンガ造りの英雄が灼熱のレンガを持たされてヤケドして、そのへんから狂っていくんですね。左の共産主義社会なのに、そんな矛盾があらわれるのか。だからダメだというのはおかしい。あの頃は議論しない。議論にならないから。今はどうなのかな。ネット右翼が多くて、あまり考えずにいる。つまりヤンキーが多いってことですよ。大阪には多いですからね。だからデモにも行かないし。忌野清志郎なんかはもうずっと80年代くらいから、反原発の歌を歌いながら商業主義と両立させた。いろいろな人がいて、いろいろなスタイルがあるわけです。後藤繁雄だって工作舎に来ていなかったらどうなっていたんだろう。当時、工作舎は運動体としての在り方が問われていたんですよね。その年代の人がみんなわかるのかというとわからない。知っている人だけが知っている。どうですかね。変わっているかもしれないけれど。

ここで米澤編集長、バンド練習のため退室。
山崎春美さん

 —— 遊塾で松岡さんと出会ったのは1979年。春美さんの活動再開後、2014年4月にはじめた連続イベント「こむらがえる夜」の第1回ゲストに松岡さんを呼んだのは強い思いがあったからですか?

山崎春美  政治家が「自分は政治が得意」とは言わないのは、人気が落ちると選挙に影響する、だから得意と言わないという部分があるかもしれないけれども、日本人は驕り高ぶってはいけないというのが世の中のジョーシキでしょ。歴史を見ると権力者がやっていたことが政治だと言えなくはないから。官僚のことになると誰も言えないけど、政治家はタレント的な面もある。行き過ぎはよろしくないとか、いろんなことがあると思うんですけれど。それを本をつくったり、作家だったり、美術や音楽でもいいんですけど、そういう人がかなり変なことを言って、何だコイツと思っても仕事だからそんな発言したとしても、本当に仕事にしか見えないというんじゃ夢はゼロでしょ。タレントがあからさまに金のためと言う人はいないでしょ。まあジョークでは言うけれど。そういうふうにみんなは認識しているじゃないですか。

1979年って、35年も前の話なのに、まだこうして普通に話していることが異常だと思いますけどね。その頃にしかできなかった、松岡さんが実力があったからできたんじゃなくて、その時代だけではなくて、その時代にそこにあったものが特殊だったという気がしますけどね。それって同じやり方で明日からやるぞって言ってできるものではない。ファッションといっしょで時代背景もあるし、言葉もそうでしたけどね。

松岡さんから言われて、一回だけ「えっ」と思ったのは、普通の文章の中のかっこ笑いは僕が最初。座談会の中で(笑)とつけるじゃないですか。あれを文章につけたのは僕が最初。

 —— 春美さんは最初は文章でデビューしたんですよね。高校時代から『ロック・マガジン』に寄稿されて。

山崎春美  『ホドロフスキーのDUNE』って映画が6月に公開されました。ホドロフスキーが『DUNE』の映画化を企画したけど頓挫したっていうドキュメンタリー。出演者がダリ、ギーガー、そうそうたるメンツ。最高の配役、製作陣。これって現実には存在しないですよね。結局『デューン』という映画はデビット・リンチが撮った。ホドロフスキーはその映画を「つらかったけれど一所懸命観た」と、そして内心から喜んだと、心から喜んだと、これは駄作だと。デビット・リンチの映画を。

話が行き過ぎですね、そういう魅力があるんですよ。最高のページがあるということではなくて、編集の在り方とか、よっぽど先駆的だったんですよ。もう3期を終わる頃に浅田彰が『構造と力』で出てきた。浅田彰はタコも見に来てくれたし、いろいろあるんですけれども、あのときに「『遊』は全部持っている、絶対手放さない」と、言っていました。そういう人は多かったですよ。
中森明夫さんが僕の本の書評を『週刊朝日』に書いてくれたんです。一回も会ったことはないけれど、存在は気になっていたと。55歳だからまだ若いからどうのとほめてくれているんですよ。だけど帯に書いている二人(松岡正剛氏と末井昭氏)、こういうカリスマ的な編集者は自分は嫌いだということは書いていましたね。

『遊』のことを、ここにしかないという言い方はするけれど、本当はこの部分とあの部分があって成り立っているのかもしれない。それらが寄っているからここにしかないと言えるけれど、そういうことじゃない。やっている人たちの力がここに結集できるような器をすごく上手につくっているんですよ。ものすごく先駆的で『遊』2期について言うと、たしかに表紙が西岡君になってから離れた人もいるかもしれないけれど、フォーマットは杉浦さんがつくったものだから。特に僕が入った頃に出た『遊』1008号で対の特集を立てるでしょう。特集「音界+生命束」。このときは遊塾がはじまったのと期をいつにして、3期を構想しはじめたからだと思うけれど、座談会をやりはじめているんです。3回の抽象的な特集。『エピステーメー』ならあるかもしれないですけれど、「音界」と「生命束」を対にしてわかるか、1009号の「世界模型」と「亜時間」ってわかるか。座談会は、1008号が生命の話、次の1009号が時間の話で、とうとう第3回1010号が形態で終わりになった。○○○、×××というしかないんだと。
その思想だけに傾倒したということじゃなくて、読者やスタッフのエネルギーを上手に集めてくれた。それは、経営者が小手先で全員に毎朝eメールを出して士気を鼓舞すればいいんだというものじゃない。

松岡さんはその後、編集学校をつくって教育にいったでしょ。遊塾は教育的かもしれないけど。松岡さんが遊塾でつくったレジュメがそれはすごい。章立てをしているわけですよ。『千夜千冊』は本になって見出しの工夫がされている。けれど『遊』2期のような立て方はしていないじゃないですか。存在に返すから。これが出る前に『遊』1期9号10号「存在と精神の系譜学」では、ピタゴラスからマンディアルグまで数多の思想家たちを綴っている。誰なんだろうというようなあまり名前を知られていない思想家がいても、横組の補足でフォローしてくれる。メインの説明が縦組で、すごい粋なデザインですよね。

 —— 『遊学』というタイトルで中公文庫になりました。補足はなくメインの説明だけですが、高山宏さんが解説で『遊』のレイアウトを絶賛しています。

 —— 工作舎との再交流は、去年のセシル・テイラーの来日公演ですか?

山崎春美  休憩時間にみんな席を立つじゃないですか、するとずらーっと席が空いて。それで、僕は2Fにいたので、1F席がどうなっているんだろうと、下を見ていたら田辺(澄江、工作舎)さんと目線があった。

 —— 春美さんは『遊』組本「は組」で、十川(治江、工作舎)と田辺といっしょに編集をしています。「は組」はどうでした?

山崎春美  どうでしたって難しかったですよ。『エピステーメー』か『遊』かっていう雑誌でしょ。(「は組」特集テーマの)冗談って。「へ組(糞!あるいはユートピア)」や「ち組(ホモエロス)」は結論がないでしょ。「は組」は笑わせなきゃ。でも十川さんも田辺さんも笑わそうって思っていないでしょね。位置づけをいっしょにしないでよって思いません?
「ち組」も「へ組」も読んだら知識の延長線上ですよね。「は組」は知識の延長線上でいいのか。人はなぜ笑うのかをやっていいのかと。いちばん確かにね。

 —— 矛盾を感じながらつくっていたんですか?

山崎春美  決まっていることなんだからやるしかないよね。


『遊』組本「は組」
『遊』組本「は組」

 —— セシル・テイラー公演では会場で石原(剛一郎、工作舎)も『ベイリー』の予約活動をしていて、それ以来交流が復活したのですね。吉祥寺のサウンド・カフェ・ズミでの「ベイリーを聴く会」の受付もしていますね。ベイリーはどうですか?

山崎春美  あの本で大変興味深かったのはベイリーがワーキングクラスということ。ビートルズはリンゴ・スターだけが本当のワーキングクラス。ジョン・レノンはあんなシリアスなのに、『イマジン』の裏ジャケットなんて豚をもって写っていて、ポールが『ラム』というレコードで羊を出しているから当てつけている。ビートルズ解散後のジョンの最初のアルバムでは「ワーキングクラスヒーロー」という曲をつくっているけれど、ポール・マッカートニーが「誰がワーキングクラスなんだ、違うだろう」と。ワーキングクラスに多少はコンプレックスあるわけでしょ。だからもしドラマーが違う人でワーキングクラスじゃなければ、あの曲は生まれなかった。ジョンは皮肉屋だから。

デレク・ベイリーも完全にそう。あんな皮肉っぽい性格はフリーミュージックにいちばん合わない。ミルフォード・グレーブスみたいな人がフリーミュージックをやるのはなるほどってみんな思うでしょ。でもそうしたらアフリカのナショナリズムと言えなくもない。黒人の問題、あるいは南北の問題はふつうにあるけど、今でも世界人口のかなりの人は飢えているわけだから。そういうものは文化との関係でいくと、ミルフォード・グレーブス的なもの、スポンティーニアスで何でというのは偏りすぎていると思うのね、それは生きている現実とは違う現実から逃避しましょうというというのとそんなに変わらないじゃないかと思う。デレク・ベイリーがいなかったらどんなふうになっていたのかなというのもありますよね。デレク・ベイリーはいわゆるスタジオミュージシャンみたいなものもやっているから、当然テクニックもあるけれど、テクニックという御託もあんまり言わない。やっぱり日本人はそういう逸材をとりあげるのがうまい。

 —— ところで『天國のをりものが』が刊行できたのも河出書房新社の編集者の熱意があったからですね。

山崎春美  最初に雑誌の『文藝』に原稿用紙30枚程度1本書いて、それから本(『天國のをりものが』)が出て、今また『文藝』に100枚書いています。もう書き終わっていないといけないんですけれど、まだ途中。文章を書く以外に道がない。僕なんてその手の価値が一文字いくらかわからないものしか無理。

 —— ミュージシャンとしてはどうですか?

山崎春美  それはない。僕のお客さんだったら本を買うかなとちょっとは思うけど。流行本でもないし、ものすごい特殊なことをやっているわけでもないから、数が決まってます。キャパがそれ以上なかなか増えない。音楽はまだライブがあるし、楽しいかもしれないですけど、損はしない。それもやらないと、ただ書くだけというのもつまらない。『アックス』(青林工藝舎)では漫画みたいなものも描いている。『アックス』は次が100号。


要するに町田が芥川賞をとっちゃいましたからね。頼むからこういうのはやめてくれというものを書いていました。なぜ絶交したかはいろいろあるんですけど、80年代の終わりくらいまでは一緒に活動していて、「INU」のギターをやっていた北田昌宏とボーカルの町田で「至福団」というバンドを組んで、北田が音楽担当。『どてらいやつら』というカセットブックを発表したとき(86年)は、まだバンドブームがくる前。この『どてらいやつら』のブックレットは全部僕が担当して、町田はルックス担当。まあいいんだけど。町田は吉本ばななに気に入られちゃって。

町田については東大や京大を出た若い編集者におべんちゃらを言われていい気になって、サイテーだというのは聞いたことはありますが。そりゃ布袋は身体デカイし、ああいうヤツだけど、蹴り出されて[布袋寅泰に殴られて町田が訴えた事件]腹立ったなんて警察に電話するか? 典型的な根性悪だと、みんな言っていますけどね。まあいいですけどね。絶対昔のイメージを出さないですからね。

だから「タコ」のセカンドを勝手に出すつもりだったんですけれども、『タコ2』はほとんど町田が入っているから音を抜けない、最初のはちょこっとだし、実際は町田が入っているライブも聴いたらロコツなんですけど、僕なんかMCで言っているにも関わらず、アンノウンにして出した。だけど『2』には全編どのライブにも全部入っているので、抜けないから、これはOKをとるまでやめた。ジャケットも『甘ちゃん』(タコBOX Vol.1)と同じ真珠子さんの絵ができたし、音も全部選曲もできていたのに。


 —— 作家活動について戻りますと、『天國のをりものが』の中には音楽評論・エッセイの他に、フィリップ・K・ディックのような幻想な短編も収録されていますが、これから書いていく作風はどのようにするのでしょうか?

山崎春美  もっと変なものになったらいいんですけど。なかなか難しいんです。河出書房新社の担当はテーマも内容も何もなくていい、なんだったら昔の古典を基にしたらと。僕は文体が変わった書き方しか絶対しないので。だからH・R・ギーガーの追悼文を依頼されたのも、僕ならありきたりの追悼じゃないものを書けるから。

 —— 文章だけではなく、春美さんの存在そのものを世に出したいという想いもあったのでは?

山崎春美  そりゃそうでしょうね。僕はしばらく表舞台から離れて、もういないような存在だったので。面白いと思ってくれているんだと思います。
僕は1958年生まれなんです。竹田賢一さんが1948年生まれで10歳上なんですね。最初坂本龍一さんと「学習団」をつくった人。鈴木いづみは49年生まれで、阿部薫が死んだ9月8日の晩に僕んところに電話をかけてきて、「なんか動かないんだけどどうしたらいいんだろう」って、鈴木いづみがうろたえていた。普段は絶対にうろたえたりしないのに。「僕のところなんか電話している場合じゃないから救急車を呼べ」と言ったんです。


この世代には戦争があるんです。第二次世界大戦の影響、が絶対あるんです。僕が小さいときに『忍者部隊月光』が流行ったんですが、登場人物は10人くらいで、敵と戦うと、一人、また一人と死んじゃうんですね。死んじゃうと減った状態で次に進む。それは不思議じゃないと今は思うかもしれない。あの当時の世の中ってフィクションの中であまり死を想定しなかった。テレビという公共の器の中になるから。いわゆる戦後の民主主義の事柄のひとつですけど、現実では死んだら生き返ったりしないでしょ。その中で生きている。Life is just to die、ルー・リードの詩ですけれど、「死ぬために生きている」わけですから。カッコいいことをやるというのは、そういうのを見逃している。

例えば唐十郎はあんまりストーリーがわからないけれどカッコいい。いちばんカッコいいのは、パレスチナに行って公演したこと。パレスチナにいる日本赤軍は指名手配を受けているから、行くことも無謀だけど、役者は誰も現地の言葉は喋れない。それじゃ現地でやる意味ないでしょ。全部現地語に訳してもらった言葉を覚えて公演した。それはカッコいいなと思った。

若松孝二もカッコいいですよ。『天使の恍惚』というタイトルはもうこれはちょっと一語も抜けないなという気がしますけどね。タイトルとかそういうのが好きなんです。コピー的ではあるけれど。コピーというのは大変じゃないですか。企業イメージとかぜんぶ気にしなくちゃいけないし。コンセプトを打ち出せるくらいじゃないと無理でしょ。そうなるとややこしくなって憧れないけれど。本当は詩のH氏賞をいちばんとりたかったんですよ。子どもの妄想ですよ。今思うと、70年代途中の『現代詩手帖』や『ユリイカ』でそんなにすごい詩があったかというとない、ない。闘争がないから。闘争とか世の中に起きているときはまだ違うんでしょうけれど、いちばん弛緩している時期、あのジャイアンツのV9が小中学生のときなんでね。

 —— 紀伊國屋書店のイベントの際はじんぶんやも選書されましたが、担当者は「春美さんは長いエッセイも書いてくれて、100冊も選んでくれて本当にいい人」と、それは感動していました。

山崎春美  松岡さんはその10倍も書いていますけれどもね。編集の形からいうと、本を選んであとは好きにしてという人がいてもいいですけれど、こんなに書くヤツがいてもいいかなと思ったのと、「タコ」とか『HEAVEN』とか昔の僕を知っている人以外は僕を知らないのが当然だと思うので、そういう人にはアピールしなければいけないからと言われてそれはそうかなと素直に反省して書いたんです。僕のことを知っているだろうみたいに書くのは嫌だなというスタンスでやっています。まだ昔の僕を知っている人がいるギリギリちょっと間に合ったかな。

 —— 長時間にわたるインタビューに時間を割いていただき、ありがとうございました。とりとめのない質問ですみません。インタビューがうまい人だったら、的を得た質問で本質をつかむことができるんでしょうけれど。

山崎春美  それってひとつの本質が出ているだけじゃないですか。本質ってひとつじゃない。だから本質って何?


山崎春美さん






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