第3回
フランセス・A・イエイツ
『記憶術』
◉玉泉八州男=監訳・水声社・1993年・519頁
かつて西欧の修辞の森の奥深くに、「記憶術」とよばれる蒼古たる技巧があった。古代ギリシアの詩人シモーニデース(Simonides, c. 556-468 BC)が編み出したというその術は、紙の入手が困難な時代に流行し、あのキケロやクインティリアヌスも活用していたらしい。この術を実践するにはまず、情報の受け皿となる建築を精神内に刻印し[…]と、そんな魅惑的な語り口に惹かれ、F・イエイツの名著『記憶術』を手にとった読者も多いだろう。 記憶術とは、場所とイメージと秩序を基盤とする人工的な記憶強化法のことで、頭のなかに設計した仮想空間に一定の間隔でイメージを配列してゆく術である。いわばコンピューターの無かった時代の仮想データベースの設計法だ。古代に淵源し、中世を生きのび、初期近代に最後の隆盛を見せた記憶術は、やがて時代遅れの知的化石となって忘れさられ、現代を迎える。
本書の出版時の1966年、著者はロンドンのヴァールブルク研究所に拠りつつ、オカルト的ルネサンス像の構築に邁進していた。彼女のねらいは、記憶術そのものに真摯な学術分析の光を当てるのはもちろん、ルネサンス期に復活をとげた同術が、当時の神秘主義的な諸思潮をたっぷりと吸収しながら変質してゆく過程を追いつつ、最終的にはその流れがジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548-1600)という天才のもとに集約される様を描きさることであった。もともとは単なる暗記便法であったものが、ヘルメス主義カバラを唱導するブルーノのもとで、宇宙の調和的秩序を記憶に焼付け、それらの内面イメージを介して天地乾坤の造化の理を掌握するための、驚異の魔術的ツールへと変貌する。
こうした極度にオカルト主義的な解釈とは対照的な視点を、本書に先行して提示していたのが、P・ロッシの『普遍の鍵』(1960年)である。より地に足がついた議論ともいえるが、近代科学の母体として記憶術を位置づけようとする記述は少々ドライだ。いまや記憶術史研究の不朽の金字塔として君臨する両著は、あくまでふたつでひとつ。合わせて読むことでバランスのとれた視座が得られるだろう。二人の切り開いた豊穣な知的沃土からは、1980年代以降にM・カラザースやL・ボルツォーニら第二世代の研究者たちが育ち、文理融合の知の坩堝(るつぼ)が出現することになる。
(桑木野幸司)
[目次より]
第1章 古典的記憶術に関するラテン語三大文献
第2章 ギリシアにおける記憶術
第3章 中世における記憶術
第4章 中世における記憶術とイメージの形成
第5章 記憶術論考
第6章 ルネサンスの記憶術
第7章 カミッロの「劇場」とヴェネツィア・ルネサンス
第8章 記憶術としてのルルの思想
第9章 ジョルダーノ・ブルーノ――『影』の秘術
第10章 記憶術としてのラムス主義
第11章 ブルーノ――『秘印』の秘術
第12章 ブルーノ記憶術とラムス記憶術の衝突
第13章 ブルーノ――記憶術に関する後期の諸作
第14章 記憶術とブルーノのイタリア語対話篇
第15章 ロバート・フラッドの「劇場」記憶術体系
第16章 フラッドの「記憶の劇場」とグローブ座
第17章 記憶術と科学的方法の成長
[執筆者プロフィール]
桑木野幸司(くわきの・こうじ):大阪大学文学研究科准教授。初期近代西欧の空間史、美術史、思想史全般。おもな出版物:『叡智の建築家─―記憶のロクスとしての16・17世紀の庭園、劇場、都市』(中央公論美術出版、2013年)。Academia edu
◉占星術、錬金術、魔術が興隆し、近代科学・哲学が胎動したルネサンス・バロック時代。その知のコスモスを紹介する『ルネサンス・バロックのブックガイド(仮)』の刊行に先立ち、一部を連載にて紹介します。