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土星の環インタビュー

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土星


#005

ネットワーカー ばるぼらさん2


米澤編集長が語る、工作舎的編集術と『遊』



 —— 『オデッセイ』の編集術については、担当した米澤編集長自らに語ってもらいましょう。

ばるぼら  『オデッセイ』では1ページに引用文を3つ出すとき、2つは似たような単語が出てくる文章を選んでいますが、1つは外していますよね。

米澤  必ずじゃないですけれどね。

ばるぼら  そこがすごい工作舎らしいと思ったんです、その外し方が。工作舎的な編集の仕方はどのように培われているんでしょうか?

米澤  培われているというほどのものでもないですよ、一人一人違います。松岡さんを直接知っているメンバーは、松岡さんから遊塾で編集を教わったとされています。しかし、今、松岡さんが主宰されているISIS編集学校もそうですが、知識や理論はそれだけでは実際の仕事には直接は役に立たない。役に立たないは言い過ぎかもしれないけれど、知識や理論や主題は編集ではないんです。

松岡さんの教え方、レジュメの作り方、校正にどんな赤字が入っているか、どういうふうにディレクションするかなど、そっちを見ないとね。ビックバンとか源平の合戦の話を聞いて、その知識なり松岡さんの考え方を叩き込んだとしても、それは直接編集には役に立たない。あくまでも知識だから。そこを実際の仕事にどう活かすのかは、それぞれがどう進めるかだから、明確なノウハウにはしにくい部分がある。

『知の編集工学』(朝日文庫)の本だけを読んでも松岡さんのように編集ができるわけがない。あの本は、松岡さんが自分でやってきたことを捉え直したもので、読むんだったらあの本がどう編集されているかまでを読みこまないとダメなんですよ。本に載っている16か条や64か条のノウハウを覚えたからといって、実際の仕事の役に立てにくい。64か条をつくるために松岡さんがどう頭の中を動かしたのかまで見ないと、松岡さん的な編集、あるいは工作舎的な編集は見えてこない。


それは一人一人捉え方が違うから、最終的な仕上がりがどうなるのかは違ってくる。同じ本をつくってもニュアンスやテイストは、僕がやるのと他の人間がやるのとでは違う。どっちがいい悪いではなくて。誤植が多いとか少ないとかはともかく、どういう仕上がりになっていくかは一人一人違う。違っていいはず。言うならば、そうした集まりが工作舎的なんです。しばりがあるようでいて、ないようなところがある。同じ場を共有しているから、感覚も似てくるところと反発するところも含めて、相互作用が起こってくる。そこでできあがってくるものは外からみると工作舎的には見えるかもしれないけれど、本人たちは無我夢中でやっているだけと思うんです。

ばるぼら  松岡さんとは全然違うことをしようという意識は働いていたんですか?

米澤  別にそこまで意識してはいません。松岡さんがエディターとして優秀で発想がすごいことは確かですが、才能が飛び抜けているので個人プレーになってしまう。松岡さんもそこがジレンマだと思うんです。松岡さんが持っているものをスタッフがうまく消化しきれていない。『遊』の頃もそうでしたが、工作舎という集団、グループワークとしてどう見せるか。松岡さんはスタッフに原稿を書かせたり、スタッフの名前をやたら出すことで、グループの工作舎を演出しようとしてきたのだと思いますが、スタッフが松岡さんの個人的な才能をマネしようと思っても失敗する。だから、そちらではない方向に行こうという意識はありました。松岡さんと別れたときはそういう意識でした。

ばるぼら  『遊』以降に工作舎でまた雑誌をやろうという話はなかったんですか?

米澤  ときどき出てはいたんですけれど、どう考えても会社が危なくなる。『遊』を休刊した頃、広告で経済基盤をつくろうという考え方が雑誌の中心になってきていました。昔みたいに企画や一定の読者を確保する工夫で、雑誌をまかなえる時代が終わりつつあったんです。それでも、儲からなくてもお金をかけないで雑誌をつくるという選択もあったとは思うんですが、一度雑誌を刊行したらなかなか休めない。休刊になったら読者に対して失礼だし、出すならちゃんと出したいなという気持ちもありました。多分『遊』では、やったことがないからできちゃったと思うんですが、そのときの感覚だと人生をつぎ込む覚悟がないとできないと思っていました。

ばるぼら  『遊』を経験したことで、もうわかってしまったんですね。

米澤  勢いがないとダメだと思う。年齢的なものも含めて。単に若くないとできないというものじゃないけれど、ある程度「自分」を捨てないとね。『遊』をやっていた頃は、僕らはほとんど家に帰れていない。それはそれで面白かったし、経済なんかどうでもいいと考えていた。単純に面白がってやっていた。だから経営者は大変だったと思いますよ。

もう一つは夢中になれるほどのテーマやフォーマットはつくれるか、周囲を巻き込んでいけるのかということがある。自分が夢中になっていても雑誌なんて一人でできるものではない。こなす仕事で雑誌はつくりたくはない。企業ものの仕事は、言葉は悪いけれど「こなす」という面も否定できない。そういうスタンスで雑誌をつくるのは嫌でした。もちろんチャンスがあったらつくりたいという気持ちはありました。


■ あえて『遊』3期について語ろう

ばるぼら  『遊』がもうちょっと続いていたらニューアカデミズム・ブームに乗ったのでは?

米澤  松岡さんも自分で言っていたけれど、2期のフォーマットで隔月刊くらいであと5年続けたらだいぶ違っていた。2期から3期の編集方針の変わり方は外からみたら理解できないようです。やっている僕らも理解できていないところがあった。一つは2期の途中で表紙のデザインが杉浦さんから変わったこと。いろいろ事情があるみたいですが、そこで読者が離れた。杉浦さんと松岡正剛、あるいは工作舎の組み合わせに価値があった。杉浦さんが表紙のアートディレクションを降りた時点であまり読まなくなったよと言う話は聞いています。


遊1001相似律 遊1002呼吸+歌謡曲 遊1008音界+生命束
『遊』第2期 左から「1001号 相似律」「1002号 呼吸+歌謡曲」(ともに1978年、表紙デザイン杉浦康平)、「1008号 音界+生命束」(1979年、表紙デザイン西岡文彦) 『遊』一覧

2期から3期に変わったときに、松岡さんがものすごく考えてああいう方針を出したんだな、松岡さんが言うことだから間違わないだろうな、というふうに自分にいい聞かせながらやっていた。僕らは『遊』の1期か2期を見て遊塾に入った世代だから、本当は1期や2期の『遊』のイメージでつくりたいわけです。ただ、それ以上のことを全く新しくつくり出したいという気持ちもあり、1期2期でああいう形になった雑誌だから、松岡さんの方針にのっていけば、また僕らが見えていないものが見えてくるんだろうと思っていたんです。しかし松岡さんに聞いてみると、どうも松岡さん自身もどこかで間違ったようだと言っています。

 —— 米澤さんは『遊』3期のリーダーだったんですよね。

米澤  2期の真ん中へんで遊塾に来て、遊塾生のいちばんの実力者が西岡文彦さん。彼が杉浦さんに代わって、『遊』の表紙や松岡さんの本の装幀を担当していました。僕は遊塾が終わる頃、松岡さんから工作舎でやってみないかと言われて働きはじめた。3期では、京都から来ている後藤繁雄と、『シティロード』の編集をやっていた宮野尾充晴と、僕の3人がなぜか選ばれて特集の編集担当になった。要するに月刊だからトリプルチームでやっていく。結局、他の仕事との関係もあって後藤と宮野尾が抜けていって。なりゆきで『遊』の特集編集は僕が残っただけ。


遊1016飾る 遊1023読む 遊1034動物する
『遊』第3期 左から「1016号 飾る」「1023/24号 読む」(ともに1981年)、「1034号 動物する」(1982年)『遊』一覧

■ 『遊』はどう運営されていたか?

 —— 米澤さんは当時の工作舎の何チームだったんですか?

米澤  僕が来たときに工作舎のチームは、出版をメインとするRチーム、リア。企業ものの営業の仕事をするFチーム、フロント。もう一つはどこにも属さないで、書店営業をしつつ街に出ていろいろ仕事をひろうGチーム。僕はG。ゲリラです。他にいくところがない人はGなんです。社員かどうかは別として、遊軍的なスタッフも入れて、RとFが10人弱なのに、Gだけが20人くらい。そのメンバーが毎日書店営業に行っていた。あとはプロモーション的な遊会、たとえば吉祥寺などでミュージシャンなどとイベントをやって工作舎のパブリシティ、宣伝をするという活動。そればかりやっていたから儲かるはずがない。

FRGの各チームにはそれぞれにデザイナーとカメラマンと編集者がいる。昼間は書店営業や営業をやって、夜はデザイナーのアシスタントなどの仕事していた。すべての仕事が一人前にできるかどうかは別にして、全体を知っているというのが前提でした。

ばるぼら  『遊』に集ってきた人は一通り雑誌づくりができるということですね。

米澤  「やりたい」ということと「できる」というのは違う。まず『遊』の読者って仲間がいない。話すことが周りに理解されない。例えばスウェーデンボルグが好きだといっても周りに理解されるわけないじゃない。工作舎だとどんな話題でもまともに聞いてくれるし、そういう連中がいるから、一人じゃない。社会生活に不適合な連中が少なくないから、営業として外に出ていくのはどうなんだろうというのはありますがね。一方で、どんなにアバンギャルドなスタイルをとっている雑誌にも締め切りはあるし、社会に出す商品をつくっている以上、思い込みだけでは仕事はできない。それをうまくつかっていったのが松岡さん。それぞれにふさわしい仕事を与えた。その一人が山崎春美。春美なんて社会性が全然なかった。今は多少あるみたいだけど。


遊塾生募集『遊1006号』より
遊塾生募集『遊1006号』より
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ばるぼら  パンの耳をかじっていた頃は給料はもらえていたんですか?

米澤  遊塾に出てくる頃、僕は札幌に住んでいました。遊塾が週に1回あって、毎週札幌に帰るのはとんでもない。最初1回来るだけ来て、その後はどうしようと思っていたら、Gチームのリーダーだった高橋秀元さんから書店営業に誘われた。書店営業に行けば昼メシ代が出る。あとは朝と夜。デザイナーの木村久美子さんのアシスタントをやっていたので、木村さんに相談したらアルバイトしたらと言われて。昼間書店営業して、夕方から夜中までデザインのアシスタントをしているので、それは無理。じゃあパンの耳でも食べていればいいじゃない、と言われたんですね。

そういう食えない連中が10人くらいいたんです。でも経済状況はまちまちでみんな金がないような顔をしているけど、それまで仕事をしていて貯金をもっている人もいるし、親からもらっている人もいた。ほとんどもらっていないのは3、4人くらいかな。最初は月に5千円の「バイト料」でした。大学初任給が10万円の時代です。いまの千円ランチがだいたい500円くらい。5千円の価値って1万円くらいかな。パンの耳は30円で山盛りでした。

僕は大学を卒業して札幌で工作舎みたいなことをやろうと思っていたんだけれど、どうにもならなくて、松岡さんの遊塾でいろいろ教えてもらおうと思ってやって来た。それで帰るに帰れない、お金がないから二度と帰れない。どうしようかなというところで、工作舎にはまったわけです。

〈遊塾〉が始まる『遊1007号』より
〈遊塾〉が始まる『遊1007号』より
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■ 松岡さんの新刊『にほんとニッポン(仮)』について

 —— 赤田祐一さんが指摘していましたが(#003)、独特の言葉遣いを、松岡さんは組織の求心力として使ったんじゃないかと。

米澤  それはある。「プラネタリーブックス」の初期の頃は、今読むと何を言っているのか、ほとんどわからないところがある。「プラネタリーブックス」に『般若心経を読む』がありますが、7、8年くらい前、復刊させたらいいんじゃないかと、一度松岡さんに話を持って行った。松岡さんもいいよ、でも手を入れるからねと、快諾してくれて。その後、なかなか返事を先延ばしにされるので、あらためて読み直したら、若い頃の印象と違って、意味がわからないというか、話の飛躍がものすごい。いきなりコンティンジェント・システムが出てきたり、エピジェネティックランドスケープなどの当時の最新の科学的なコンセプトとボディサットヴァのようなインド哲学用語が交差しまくる。面白いといえば面白いんだけど、その独特のリテラシーから切れた人からみれば何のことだかわからない。


プラネタリーブックス12 『般若心経を読む』
プラネタリーブックス12『般若心経を読む』

 —— そうした経緯もあり、『般若心経を読む』復刊企画は流れましたが、松岡さんの本を久々に刊行します。

米澤  『にほんとニッポン(仮)』という本で、松岡さんがこれまで日本について書いたものを再編集します。春秋社の『17歳のための世界と日本の見方』や、連塾の3冊(『神仏たちの秘密』『侘び・数寄・余白』『フラジャイルな闘い』)は時代順ですが、とびとびになっているので、松岡流の日本史の見方のような内容を通史的に時代を追って読めたらいいなと思って企画しました。松岡さんの本十数冊、『千夜千冊』も入れて、古代から平成まで、3.11までの日本史のトピックについて松岡さんが書いていることを年代順にまとめて、それに対して、年代順にまとめきれない「侘びさび」や「幽玄」などについての文章を周辺に散らしています。歴史では『オデッセイ』のようにバラバラにすると読みづらくなるから。

構造は3段に分かれ、真ん中の段が年代順に進行しているので、そこだけを読んでいくとややとびとびではありますが、通史的に理解できる。下の段が「侘びさび」などの用語説明。珠光の話の前後に「侘びさび」が出てくる。註のようなものではありますが、それぞれが独立した読みものになっています。上の段が国際的な交流の話。このフォーマットで決まったところです。松岡さんからダメだしが出るかもしれないけれど。


『にほんとニッポン』ゲラへの松岡さんの赤字
近刊『にほんとニッポン』ゲラへの松岡さんの赤字
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『遊』の頃、松岡さんからダメだしはいっぱいあった。理不尽と思えるダメだしも多かった。明日入稿なのでこれでなんとかとお願いしてもダメ。松岡さんの言わんとしていることはぼんやりとわかるからなんとか改良できるかな、やり直しができるかなと思うけれど、結構ハードルが高い。赤字で指示されるなら簡単だけれど、「もう少しなんとかなるだろ、米澤なら」と言われたらプライドも刺激されるし、「できません」とは言えなかった。やはり松岡さんは人をつかうのがうまい。

 —— この最初の松岡本のフォーマットについては?

米澤  工作舎と松岡が組んだらこうなるよね、と。

ばるぼら  楽しみですね。

 —— ばるぼらさん、どうもありがとうございました。



米澤 敬(よねざわ・けい)
2001年より工作舎 第3代編集長。編集を手掛けた書籍は『ビュフォンの博物誌』『キルヒャーの世界図鑑 』『茶室とインテリア 』『TRA(トラ) 』『にほんのかたちをよむ事典 』など多数。盟友、松田行正氏の出版社、牛若丸出版から著書『B ビートルズの遊び方』『変』、編著『TERRA』も上梓する。

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