第23回 目のご馳走としての普遍学
今年も年明け早々からテロ事件のニュースが続いていますが、そうした物騒な地球状況に警告を鳴らすように、ジオコスモスへの好奇心を喚起する書物2冊がほぼ同時期に刊行されました。1冊は前回報告した『ジオコスモスの変容:デカルトからライプニッツまでの地球論』(山田俊弘著、ヒロ・ヒライ編、勁草書房)、もう1冊はその少し前に刊行された『フンボルトの冒険:自然という《生命の網》の発明』(アンドレア・ウルフ著・鍛原多恵子訳、NHK出版)です。
身をもってジオコスモスを踏査し、そのようすをいきいきと報告して、ゲーテやヘッケルはじめ、ダーウィン、ヴェルヌ、ソローなど、さまざまな異才に多大な影響をおよぼしたアレクサンダー・フォン・フンボルト。ウルフによる伝記日本版はパブリシティも万全で、発売されるやWIRED(vol.27)に「わたしたちは、フンボルトの眼からもう一度、世界を新しく見つめなおすことができる」と題した著者インタビューが掲載され、毎日、日経、読売、東京/中日などの各紙書評も相次いで掲載されました。
かつて、岩田慶治先生に触発されてフンボルトに興味をもち、『コスモス』全5巻の翻訳をと意気込んだものの、あまりの膨大さに挫折し、せめて『自然の景観』(『自然の諸相』木村直司訳、ちくま学芸文庫)の翻訳をと願って進めたことがありましたが、入稿すらかなわぬまま今日に至ってしまいました。
探検家であり、動植物の分布状態の観察者にして標本採集家であり、地形・地理、気象の観察・観測者でもあり、精力的な文筆家で、世界の科学者・文化人・政治家と文通する「学者の共和国」の牽引者でもあったフンボルトは、ライプニッツ同様、存在そのものが「コスモス」と言えるような人物。自らの好奇心のおもむくままに諸学の研究を進め、多様性に富んだ自然を嘆賞し、この喜びを広く共有できるように、図像表現を工夫しました。
この2巨頭およびアレクサンダーの兄、言語学者で教育改革者でもあったヴィルヘルム・フォン・フンボルトを加えた3人は、ドイツの主都ベルリンを介して深く結び合っています。
ライプニッツがベルリン諸学アカデミーを創設し、自ら会長になったのは1700年のこと。翌年プロイセン王となったフリードリヒ1世=ゾフィー・シャルロッテ夫妻のベルリン宮殿もしばしば訪れ、さまざまな献策をしました。
一方のフンボルト兄弟はベルリン郊外に生まれ、兄のヴィルヘルムは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(フリードリヒ1世=ゾフィー・シャルロッテ夫妻の玄孫)の廷臣として、内政・外交の両面にわたり活躍しました。ヴィルヘルムは弟とともに「学者の共和国」を牽引し、教養を重視したベルリン大学(フリードリヒ・ヴィルヘルム大学:1949年フンボルト大学に改称)創設に尽力しました。同大学には明治期の学術をリードした、森鷗外、北里柴三郎、寺田寅彦なども留学しています。
弟のアレクサンダーは、各地の探検とパリの空気を好んだようですが、晩年はベルリンに戻り、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、4世に廷臣として仕えました。
フンボルト大学で1993年から教壇に立っているのが、『モナドの窓』(原研二訳、産業図書)や『ライプニッツと造園革命』(同前)の著者ホルスト・ブレーデカンプ。『モナドの窓』訳者あとがきで紹介されているように、2000年から翌年にかけて、ブレーデカンプ教授はフンボルト大学所蔵のコレクションをライプニッツのテクストに記されたコンセプトを元に展示して注目を浴び、2002/03年冬学期のゼミで、それらのテクストについて講義した内容を元に、『モナドの窓』を上梓(2004/再版08)したとのことです。
ライプニッツやフンボルト兄弟が出入りしたベルリン宮殿は、第2次世界大戦の空襲で廃墟と化しました。しかも戦後は東ドイツの統治下になり、カール・リープクネヒトが社会主義共和国樹立宣言をしたバルコニーのある外壁部分以外は、残骸すらも撤去されてしまいました(1950)。件のバルコニーだけは、後に新築された国家評議会ビルのファサードに移設され (1964)、現在でも学校の校舎の顔として健在だそうです。ベルリン宮殿跡地には「共和国宮殿」なる近代建築が建設されたものの(1976)、アスベストの使用がわかり、東西ドイツ統一直前に閉鎖。その後解体・撤去という20世紀ならではの紆余曲折もありました。
統一後、宮殿再建の声はしだいに高まり、2007年、ドイツ連邦議会がベルリン宮殿を複合施設「フンボルトフォーラム」として再建することを決議しました。宮殿の3立面が再現され、中には、国立民族学博物館やアジア博物館、図書館などが入る予定。完成は、アレクサンダー生誕250周年となる2019年とのことです。
ブレーデカンプ教授により、ライプニッツの「知の劇場」をコンセプトにした「世界へのもう一つのアプローチ:ベルリン宮殿のフンボルトフォーラム」展も開催 (保坂健二朗「ベルリンのフンボルトフォーラム」『すばる』2010.2)。
フンボルトフォーラムについての情報を提供し、宮殿再建現場を見渡すこともできる仮設建築「フンボルトボックス」も公開されました(2011)。
またベルリン最大の自然史博物館、通称「フンボルト博物館」は、2009年にフンボルト大学から分離され、ライプニッツ学術連合(略称ライプニッツ協会[Leibniz Gemeinschaft]:ハノーファーを中心とするライプニッツ協会[Leibniz Gesellschaft]とは別組織)に組み込まれ、名称も「ベルリン・フンボルト大学=ライプニッツ進化生物多様性研究所・自然史博物館」に改められました。
ライプニッツは、コンピュータの前提となる記号論理学の創始者としての印象が強すぎて、多様な現物に接することの重要性をも説いていたことが忘れられがちですが、ベルリンではまさにライプニッツが夢見た博物館=図書館構想を実現するプロジェクトが進められているのです。
ライプニッツは第2巻第1部3「王子の教育についての書簡」(津崎良典訳)で、帝王学においても、「自然と人工の劇場」(珍品収集館・美術蒐集室)でさまざまな現物にふれて文理融合的な教養を身につけることの大切さを強調しています。
第3巻『技術・医学・社会システム』の冒頭は、『奇想百科:新趣向博覧会開催案』(仮・佐々木能章訳)。『モナドの窓』では原研二氏が『思考遊び』と訳した論考を、第I期著作集以来、膨大な量のライプニッツのテクストを日本語にしてきた訳者にして第II期の監修者が、幅広い層を目のご馳走で楽しませながら普遍学へ導くための計画案として仕上げてくださいました。
(十川治江)
南米チンボラソ山の高度に応じた生態系や気象条件などが一目瞭然の自然画
フンボルト『植物地理学論考・熱帯の自然画付』(パリ 1805)より