多主語的なアジア[詳細]
アジアの神話空間では、
数えきれないほどの「小さな主語」、
あるいは主語とは呼べないほどに「幽かなる存在」が、
宇宙の森羅万象をみたしきっている……。
■目次より |
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【1】
「生命記憶」、そして「照応しあう」こと…アジアのカタチ・アジアの心
生命のざわめきに 聴き耳をたてる…
生命記憶を形にする…
【2】
見えないものが、この世界を支えている ------------杉浦日向子さんとの対話主張する模様 ------------日高敏隆さんとの対話
【3】
光る眼唐草文(からくさもん)、生命樹(せいめいじゅ)の吐息
「天の火・地の水」 荒(すさ)ぶる神輿(みこし)
天の双龍(そうりゅう) 古鏡(こきょう)が語る宇宙図
【4】
「オームの波動」宿すアジアの森羅万象をみたす多主語的なもの
アジアの多主語的世界に魅せられて---聞き手=津野海太郎
■関連図書(表示価格は税別) |
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■関連情報 |
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2010.11.18〜2011.1.10 紀伊國屋書店新宿本店「じんぶんや」 杉浦康平選書フェア
紀伊國屋書店新宿本店5Fにて、杉浦康平さんの選書フェア「一枚の紙、宇宙を呑む」開催。選書は「マンダラ宇宙」「生命の記憶・気の流れ」「シンボルの文化」「渦巻くかたち・五感をひらく」「漢字の力」「スギウラ・ブックス [「本」の妙を伝えたい]」の5つのテーマに分かれ、100点近く(品切も含む)に及びました。この選書リストと書き下ろしのエッセイ「一枚の紙、宇宙を呑む」が、無料配布の小冊子に収録されています(紀伊國屋Book Webでもご覧いただけます)。
詳しくは2010/11/30更新[今週の1枚]へ >>>
2010.7.4 杉浦康平×中島岳志トークイベント
シリーズ『杉浦康平デザインの言葉』第1弾『多主語的なアジア』の刊行を記念して、杉浦康平さんと中島岳志さんのトークイベントが、青山ブックセンター本店にて開催されました。定員120名のところ、140名近くが入場し大盛況。
詳しくは2010/7/13更新[今週の1枚]へ >>>
■書評 |
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●親鸞仏教センター ブックレビュー
本書では、いまなおアジアに残るさまざまな造形物や、古の儀式などのデザインから、この多主語的な精神を読み取ることを試みている。目を凝らせば実はすぐ近くにある、脈々と受け継がれてきたアジアの多主語的世界観に意識を向けてみることの意義は大きい。私たちは西洋的近代化の波に迎合し、無反省に自我を拡大しつづける在り方から少し立ち止まる必要があるのかもしれない。(花園一実/親鸞仏教センター研究員) 全文は親鸞仏教センターサイトへ
●2011.3.24 永田陽一さんブログ
神の領域とアーティスト
…日本の、そしてアジアの写真家を含めたアーティストができることがたくさんある時がきたのだ、と思う。
昨年、工作舎から出版された杉浦康平氏の著作『多主語的なアジア』は欧米の進歩史観から脱却する発想への大いなるヒントとなるにちがいない。「永田陽一ブログ:ポートフォリオレビューへの道」全文はこちら >>>
●「いける本いけない本」(ムダの会発行)の「いける本」に
…杉浦さんの文章は、なにか宇宙からこぼれ落ちてくる思索の断片、天上の言葉の花びらといった趣があって、奇想天外といってもいい発想を、華麗な修辞とともに次から次へと投げかけてくる。こちらが本当に理解できているのかどうか心もとないところはあるが、いたるところで発見の喜びが味わえるのである。…(三省堂 松本裕喜さん選)
●書道界 2010.11月号 臼田捷治氏書評
キーワードである「多主語的」とは、欧米の一神教的原理に対して、アジアの「ヒンドゥー教をはじめとする諸宗教は、多神教」であり、日本でも八百万の神を奉じるように、「山川草木ことごとくに魂が宿るという、アニミズム的な思考に支えられている」ことが背景にある。
その具体的な表象世界の解析で著者の本領はいよいよ冴えわたる。ひとつの例を挙げれば、ヒンドゥー教のクリシュナ=ヴィシュヌ神や日本の不動明王の「日月眼」。後者では右目は丸く見開かれ、左目は半開き。太陽と月が織りなす宇宙の摂理を凝縮した、アジアに根源的な多義的世界観と生命観を照らし出す「二而不二ににふに(二にして一)の巧みな表出法だと。
●美術手帖 2010年10月号 杉浦康平氏インタビュー
連載「アートの地殻変動」にて北川フラム氏が聞き手となって、カラー4ページにわたり杉浦氏のインタビューが掲載されています。
多主語的な世界、人類としての記憶の根源に立つ
——今年の7月から『杉浦康平デザインの言葉』のシリーズが刊行されはじめ、杉浦さんの言葉がまとめて拝読できる好機に恵まれていますが、読めば読むほど、ほかのデザイナーとはまるで違う世界を見ていることが明らかになって、いまさらながら驚いた次第です。今日はその世界観についてお話をお聞きしたいと思います。
杉浦 僕にはある直観があるんです。いまここに人が集まって話をしているでしょう。でも、世界はここだけではない。無限に広がる世界が私たちを包んでいる。そしてその豊かな世界の集約が、まぎれもなくここにある。こうした二つの世界の同時性のなかに、人は生きていることをつねに思ってきました。
●2010.9.19 日経新聞書評
この世で命をまっとうした多くの人は漠然と生を営んで逝ったわけではなく、存在を全開にして生きる瞬間があったはずだ。文化を作り育てたのもそうした人々である。アジアの人々との出会いからそんなことを思い始めた著者のエッセーや対談を集めた。…アジア特有の美を発見できる一冊。
●2010.8.15 毎日新聞 中村桂子氏書評
過去の全存在による無限の力への畏れ
…単なる反ヨーロッパでもアジアへの憧れでもなく、アジアの本質を生かすデザインとその基本にある生き方を求めての旅を今も続けている著者からのメッセージが本書なのである。(中略)
著者はアジアに、無名の人々が積み重ねてきた文化を見出し、「自分の存在」—「過去の膨大な人間の全存在」という引き算をする。文化、文明のほとんどは無名の人々の無限とも言える力で作られたものであるという自覚が必要と知ったのである。それを解剖学者三木成夫の言う「生命記憶」という言葉につなげると、この無限とも言える力を発揮したのは、人間だけでなくあらゆる生命体となる。そして、それを受け継ぎ、育てながら生きる大切さを思うのである。そういう眼で見ると、ウルムで見せつけられた「私」の主張は痩せこけた自我意識であり、一方アジアの多数の主語のある存在様式にこそ、豊かさの源泉があると思えてきたと言い、その具体例として、唐草文、生命樹、神輿、宇宙図などをあげる。
多主語とは、人間が、更には個人が、世界は自分だけのものであるかの如くふるまうのでなく、「世界を埋めつくす一つ一つのものの身になってみる。そうすると世界がどう見えるか。見えた世界の全体を自分の眼とともに理解する、という訓練」をしようということだ。(中略)
「多主語的なアジア」とは、生命を取り巻くさまざまな事柄について考えさせる言葉である。