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ライプニッツ通信II

第2回 ゴットフリート・ヴィルヘルムの修業時代

ディドロやフッサール、ハイデッガー、ドゥルーズといった哲学者、さらにはラプラスやマッハ、プランク、ウィーナー、ゲーデルといった科学者・数学者……歴代の並みいる偉才たちに「別格の天才」と認められてきたライプニッツ。20歳にして普遍学構想のベースとなる『結合法論』を著したこともあって、天才は生まれながらにして天才と思ってしまいがちです。でも、第II期第1巻『哲学書簡』をひもとけば、第1部、第2部それぞれ年代順に編まれているので、若き日のライプニッツがどのように学者の共和国(res publica litteraria)で地歩を固めていったのか、うかがうことができて、彼もまた修業時代をへて成長を重ねていったのだと納得し、少しばかり安堵します。

1672 年、26歳でパリに出るまでは、文化的にはイングランドやフランスの後塵を拝さざるをえなかった領邦国家ドイツ(神聖ローマ帝国)にあって、ライプツィヒ大学で師事したトマジウスは、学者の共和国での交流マナーを実践によって教えてくれた文字どおり恩師でした。トマジウスに対しては遠慮なくホッブズについて質問し、アリストテレスの再評価について同意を求めます。

そのホッブズには、反デカルト派の旗頭として仰ぎみるラブレターまがいの手紙を綴りながら、ホッブズから受け継ぐべきことどもを確認していきます。

後に往復書簡を交わすことになるアルノーに対しても、パリ行きの前年に自己PR満載の手紙を送りつけます。 修業時代のハイライトは、なんといってもスピノザ。『神学政治論』を匿名出版したスピノザ宛にライプニッツはパリ行きの前年に短い手紙を出し、短いながら丁重な返信をもらっています。

パリにおもむいたのは、ルイ14世に「エジプト遠征」を献策してオランダ侵略戦争を未然に防ぐという外交的使命をおびてのこと。この使命は果たせず周辺諸国をまきこんだ戦争は勃発しましたが、パリでデカルトの解析幾何学に出会ったライプニッツは、数学の国際水準の高さに衝撃を受けながらも、1673年に和平工作のためにロンドンに渡った機会をのがさず、王立協会の事務局長オルデンバーグに会い、計算機の試作を王立協会で披露し、2か月後には同協会の会員として認められます。四則演算のできる計算機は、ドイツにいるときにすでに着想していたのですから、やはりただ者ではありません。

パリに戻るやまたたく間に数学の真髄をマスターし、微積分学を創始するまでになります(この間の急成長ぶりは、故原亨吉先生のご尽力により、第I期第2巻「数学」で、つぶさにたどることができます)。

これだけ数学でめざましい成果をあげれば、スピノザのことは放念しそうなものですが、さにあらず、パリ滞在最後の年となる1676年春にアムステルダム在住の医者シュラーを介して入手したスピノザの『エチカ』草稿の要点やL・マイエル宛の無限に関する書簡を書き写し、これにコメントを付しています。さらに同年の帰国途上に立ち寄ったロンドンでは、スピノザがオルデンバーグに宛てた手紙を筆写、これにも書き込みをしていきます。

当時の書簡は公開を前提としているので、他人宛の書簡を入手して検討してもマナー違反ではないのですが、気にもしていない相手に、そんなことをするはずもありません。

そのうえでオランダにわたり、スピノザと会見。ライプニッツが神の存在論的証明をしたメモを示して「長い時間をかけて何回か話した」という対談の詳しい内容が残されていないのは残念ですが、この2巨頭が出会っているという一事だけでも、「この世は最善」と観るライプニッツを支持したくなります。スピノザはこの会見の3か月後には亡くなり、遺稿集として『エチカ』が刊行されます。ドイツに戻ったライプニッツはすぐにこれを入手して筆写、逐一コメントを加えます。

第1巻『哲学書簡』は、こうした若きライプニッツのスピノザ研究の全容を上野修氏の解説とともに収載。G・W・ライプニッツ図書館提供のスピノザのライプニッツ宛書簡とライプニッツの『エチカ』の筆写と書き込みの手稿も併載しています。ライプニッツにとって、スピノザが乗りこえるべき巨人としていかに絶大な存在だったか、改めて実感できます(十川治江)。






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