第21回 マサム夫人との縁
「永遠の哲学」、「聖なる哲学」という言葉で連想するのは、新プラトン主義者マルシリオ・フィチーノ(1433 – 99)の「敬虔な哲学」をイングランドで展開したケンブリッジ・プラトニスト、レイフ・カドワース(1617 – 88)のこと、さらにはカドワースの娘、ダマリス・カドワース・マサム(1659 – 1708)のことです。
ダマリスは当時の女性の常としていわゆる高等教育を受けることはできませんでしたが、父親をとりまく知的にして霊的サークル(カッシーラー『英国のプラトン・ルネサンス』参照)に触発されながら理性と信仰をともに育み、自ら考え、自ら築いた世界観のもとにふるまうことのできる大人となりました。
1682年(23歳)に、すでに50代となり王権神授説を否定する『統治二論(市民政府論)』を執筆していたジョン・ロック(1632 – 1704)と出会い、この父とは対照的な思想の持主に深い共感を寄せるようになります。ロックは反カトリックの急先鋒シャフツベリー伯の私設秘書をつとめていたため、ダマリスと出会った年に伯爵が政治的に失脚すると、オランダに亡命を余儀なくされます。ダマリスは1685 年(26歳)に、8人とも9人とも伝えられる大勢の子持ちのフランシス・マサム卿(c.1646 – 1723)の後添いとなり、翌年には一人息子フランシスをさずかります。
名誉革命(1688)の翌年にロックは帰国しますが、オランダ亡命中もダマリスとは親愛の情をこめた手紙を交わしていたことが、1976年に公刊されたロックの書簡集で明らかになりました。
帰国後、ロックは『統治二論』(1689)に続いて『人間知性論』(1690)を公刊し、イギリス経験論の礎を築きます。
マサム卿とダマリスとの間で何らかの合意があったのか否か分かりませんが、1691年以降、ロックはオーツのマサム邸に住むようになり、ダマリスとともにニュートンやS・クラーク、シャフツベリー伯(第3代:失脚したシャフツベリー伯の孫。幼い頃ロックに教育されたがケンブリッジ・プラトニストに共鳴)などが出入りする知的サークルを主宰しながら、『教育に関する考察』(1695)、『キリスト教の合理性』(1696)などの著書を相次いで刊行します。
多様性に富んだ知的サークルに励起されたダマリスも、自らの宗教観を綴った『神の愛について』(1696)を匿名出版します。
さらに1697年、ダマリスの息子フランシスの家庭教師としてマサム邸に迎えられたのが、ナントの勅令廃止で故国フランスから亡命し、スイスやオランダを転々としていたユグノーのピエール・コストでした。このコストがロックの『教育に関する考察』、『キリスト教の合理性』に続いて、『人間知性論』を仏訳(1700)し、この仏訳版を読んだライプニッツに『人間知性新論』(第I期4・5巻)を書く動機をもたらしたのです。
偶然と必然のあわいにゆらぐ暗合は、いつの時代にもあるもので、ライプニッツが『人間知性新論』執筆の終盤にさしかかった1703年末、マサム夫人ダマリスは父カドワースの著書『宇宙の真の知的体系』をライプニッツに贈ったのです。同書は、ローマ滞在中(1689)のライプニッツのアンテナにかかった一著であり、マサム夫人の背後にはロックが控えていることを意識したライプニッツは、これを機に彼女と足かけ3年にわたり手紙を交わすことになります(第1巻第2部3)。
マサム夫人のプレゼントと手紙のやりとりについて、ライプニッツは弾んだ筆致でプロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテに知らせています(第1巻第2部2−3)。
マサム夫人はP・ベールが『歴史批評辞典』で批判したライプニッツの予定調和説に、丁重ながら鋭い問いを投げかけてきており、ライプニッツも丁寧に返信で応えています。また『人間知性論』の覚書(『人間知性新論』)を書いているので、ロックにくれぐれもよろしく伝えるよう念を押しています。
この密度の濃い交信のさなかに、マサム夫人はロックを喪い(1704)、ライプニッツはゾフィー・シャルロッテに先立たれ(1705)、お互い心中を吐露し合い、悲嘆にくれる相手を気遣うことになってしまいました。
ライプニッツは反論の機会を失った著者に礼を欠くことになるからと書き終えていた『人間知性新論』の出版を断念し、マサム夫人へのエールともとれる、カドワースの有機的自然観を評価する論考『生命の原理と形成的自然についての考察』(1705:第I期9巻)を『学術著作誌』に発表します。
マサム夫人は綴ることで自らを鎮め、『崇高なキリスト教徒の人生についての考察』(1705)を匿名出版します。息子とともにハノーファーを訪れる計画も立てたようですが、残念ながら実現しませんでした。訪問がかなえば、ライプニッツはもちろん愛娘を喪って間もない選帝侯妃ゾフィーも、母(エリザベス)の国のことば(英語)で哲学を語り合える賓客として大歓迎したことでしょう。
ピエール・コストもマサム夫人を元気づけるように、彼女の著書『神の愛について』を仏訳してアムステルダムで出版し(1705)、1部をライプニッツに送り、二人の間でも手紙が交わされるようになります。1706年のコスト宛の手紙で、ライプニッツはマサム夫人が『神の愛について』で展開している思想は、『国際法史料集成 序文』(1693:第2巻第3部3)で正義について論じたさいの自分の考え方に似ていると、当該箇所を抜き書きして送っています。
またコストは、ライプニッツのロック批判が的外れにならぬように、『人間知性論』仏訳初版の正誤表も送ってくれました。
ライプニッツと対面する機会を逸したまま、1708年にマサム夫人は他界してしまいます。
『ウィーン講演』(第2巻第2部4)の草稿を練っているときのライプニッツの胸中には、ゾフィー、ゾフィー・シャルロッテ母娘との思い出とともに、マサム夫人との交流も去来していたはずです。
『人間知性新論』が刊行されたのは、ライプニッツの没後ほぼ半世紀を経た1765年のことでした。
(十川治江)
霊的知性と合理的知性にともに恵まれた
ダマリス・カドワース・マサム(1659 – 1708)