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ライプニッツ通信II

第32回 錬金術と化学の汽水域


1667年、アルトドルフ大学で法学博士号を取得した若き日のライプニッツは、ニュルンベルクに半年ばかり滞在し、親戚のユストゥス・ヤコプ・ライプニッツの仲介で同地の錬金術協会に関わったことが知られています。同協会会長のダニエル・ヴュルファーとも親しくなり、秘書としてさまざまな実験経過を記録したり、主要な錬金術関係の著作の抜粋を作成したり、濃密な時間を過ごしたようです。このおかげで、後年君主たちから錬金術を強いられたときも注意深く、好奇心を保ちながらも批判精神をつらぬくことができたと述べています(酒井潔『ライプニッツ』清水書院)。

16世紀に『奇蹟の医書』『奇蹟の医の糧』を著したパラケルススが、錬金術/化学を医療に活かす医化学者(イアトロケミスト)の先駆となって以来、医学や生理学は錬金術と化学の汽水域となりました。

前回述べたとおり、マインツ宮廷におけるライプニッツの前任者、ヨハン・ヨアヒム・ベッヒャーも錬金術/化学の知識と技術に裏づけられた医師でもありました。山師的なうさんくささを漂わせながらも、ベッヒャーの視野の広さとスケールの大きさは、ライプニッツをおおいに鼓舞したにちがいありません。

第3巻第2部「医学」のハイライト、4「シュタール医学論への反論」(松田毅訳)でライプニッツが批判したゲオルク・エルンスト・シュタールは、1697年の著書『発酵の一般理論』(Zymotechnia fundamentalis sive fermentalionis theoria generali)で、ベッヒャーの燃焼理論をフロギストン説としてバージョンアップした人物。フロギストン説は、1774年にラボアジエに否定されるまで、一世を風靡しました。 フロギストン説が否定された後も、シュタールがドイツ化学の祖として尊敬されていたことは、1902年のノーベル賞化学賞受賞者エミール・フィッシャーが、化学者の殿堂ホフマン・ハウス(ベルリン大学教授A・W・ホフマン記念)に、シュタールの肖像画を寄附した一件からもうかがえます。

シュタールの『合理と実験の化学』(1720)の邦訳版(田中豊助・原田紀子・石橋裕訳、内田老鶴圃 1992)の「はじめに」には、フィッシャーの逸話とともに、日本初の化学書、宇田川榕庵『舍密開宗』(せいみかいそう:1837)に、シュタールへの言及があることが紹介されています。

プロイセン第一等侍医スタル〔シュタール〕(スタルハベッセル〔ベッヒャー〕ノ弟子、青キコト藍ヨリ出ツ……)師説ヲ潤色シ初テ波羅義斯敦(ホロギストン〔フロギストン〕)ヲ説ク……

ラボアジエによるフロギストン説の打破にまでふれている『舍密開宗』の元となったのは、イングランドの医師にして化学者、ウィリアム・ヘンリーによる『実験化学要綱』 (Elements of Experimental Chemistry, 1799)。同書は30年のうちに30刷にまで達した当時のベストセラー。ドイツ語訳、オランダ語訳を経由して、津山藩の藩医でもある宇田川榕庵により日本の読者にお披露目されたのでした。

シュタールは「昔は錬金術(Alchymia)……とよばれていた化学(Chymie)は……」 と『合理と実験の化学』の序論を始めており、過去と決別して化学の一般原理と実験手法を展開してゆくのかと思いきや、末尾では「哲学者の石」に言及し、付録として真面目な錬金術師と評されたイサック・ホランドゥスの論文「金属の塩および金属のオイルについて」を収載しています。

医学に関しては、錬金術や占星術などを背景に蓄積された経験知のなかから有用なものを活かすべきであるという立場をとったライプニッツ同様、シュタールも先人たちの蓄積を尊重する態度をつらぬいたのでした。

ジョン・ロックを批判して『人間知性新論』が生まれ、ピエール・ベールを批判して『弁神論』が生まれたように、ライプニッツが論戦を挑む相手は、共感する部分も多い同時代の最先端をゆく人士ばかり。ハレ大学医学部教授時代のシュタールの著作『医学の真の理論』(1707)を批判したのも、シュタールが一目も二目も置く存在であったからでしょう。心が身体に作用するとして生気論を唱えるシュタールに対し、ライプニッツは身体の諸現象はあくまでも機械論的に探究すべきという立場でした。

1709年のライプニッツの簡潔な批判に対し、シュタールは10倍の字数をつらねて反論してきたので、1711年、ライプニッツはシュタールの反論に沿って逐一再批判しました。シュタールはさらに再反論を展開し、ライプニッツの没後、『無駄な争い』(1720)として二人の応酬の一部始終を公刊しました。このあたり、ロックの没後、反論できない相手に失礼として『人間知性新論』の出版をひかえたライプニッツとは好対照です。

第3巻には、シュタールの最初の反論の要約を付し、論争の経緯を浮き彫りにしています。

シュタールは1715年以降、ゾフィー・シャルロッテの息子で第2代プロイセン王となったフリードリヒ・ヴィルヘルム一世の侍医をつとめ、一生を終えました。

(十川治江)


ゲオルク・エルンスト・シュタール
ゲオルク・エルンスト・シュタール(1659-1734)





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