第34回 パスカルからライプニッツへ
第3巻『技術・医学・社会システム』の編集作業も、ようやく大詰め段階となりました。 第II期の完結にあたり、監修者の提案で、第I期・第II期すべての収載論考の執筆年代とジャンルが総覧できる付録をつけることになりました。
佐々木能章先生が作成した原案を酒井潔先生が増補した一覧表は、生涯にわたり全ジャンルのテーマを考えつづけたライプニッツの思考動態を示す「パノラマ」の感があります。もちろんこれは第I期・第II期に収載された論考にかぎっても見えてきたことで、1923年以来ドイツで刊行されつづけてまだ先は遠そうなアカデミー版『G・W・ライプニッツ全著作・書簡』が完結した暁に同様の表を作成したら、さぞかしめくるめくものになると想像できます。それでも日本語版『ライプニッツ著作集』は、10巻+3巻という限られた巻数で、ライプニッツの全容のエッセンスを提示する世界に類例のない著作集となったことを証す表となりそうです。
これもひとえに第I期を監修くださった下村寅太郎、山本信、中村幸四郎、原亨吉の4先生、第I期の訳者として尽力のうえ第II期を監修くださった酒井、佐々木両先生のご高見のたまものと、感謝するばかりです。
佐々木先生は第I期全10巻を丁寧にサーチして、目次に示された論考だけでなく、訳者解説中に訳出された書簡も拾ってくださいました。その中に、以下のようなライプニッツ自身がパリ時代を晩年に回想したJ・ベルヌイ宛の書簡もありました。
1672年パリに着いたとき、私は独学の幾何学者、それも長々と続く証明をたどる忍耐心を欠いた、やる気のない幾何学者でした。…… たまたまその頃ホイヘンス氏が──私を過大評価されたに違いありません──振子[時計]に関する近刊の自著一部を、わざわざ私に送ってくれました。これが私にとっては、より厳密な幾何学への端緒とも機会ともなったのです。私たちが話し合っておりましたとき、この人は私が重心についての正確な概念をもっていないことを知って、手短かにそれを説明するとともに、デトンヴィル[すなわちパスカル]がこの種の主題を見事に扱っていることを教えてくれました。この上なく素直という特徴を持ち続けてきた私、そしてしばしば、ひとりの偉人の僅かな言葉から啓発を受けると、自分の未熟な無数の想念など直ちに忘れ去った私は、直ちにこの大数学者の忠告に従いました。というのも、ホイヘンス氏の器量の程は、私にも容易にわかっていたからです。それに、自分がこの[重心の]ようなことも知らないと見られた、恥ずかしさのせいもありました。そこで、いよいよ真剣に幾何学を勉強しようと、デトンヴィルの本〔『デトンヴィルの手紙……』1659〕をブオティウスから求め、グレゴワール・サン・ヴァンサンの本〔『幾何学考』1647〕を王立図書館から借りました。そして時を置かずに、ヴァンサンの例の蹄形、例の和と、和の和、さらに様々な仕方で生み出され分解された立体を、楽しみながら眺めました。実際、それらのものは労苦より快感を与えてくれたのです(1703年4月、ヤコプ・ベルヌイ宛書簡後記、原亨吉訳 K I, 2, 121-122)。
原亨吉先生は、下村寅太郎・中村幸四郎両先生の招請により監修者として加わり、数学論文の選定から訳者の手配、訳文・解説チェックのかたわら、ご自身でも多くの重要論文を訳出・解説して、第2・3巻の上梓に導いてくださった方。ライプニッツの数学的発展が明解にたどれるよう、ご自身もふくむ訳者が苦労して訳出した原稿を惜しげもなく没にされることもたびたびでした。
1918年6月21日生まれ。旧制一高で医学をめざしたものの、カエルの解剖が嫌で京都帝国大学では哲学を専攻し、さらに東京帝国大学仏文科に転校。1942年、東大繰り上げ卒業と同時に入営し、南方に出征して少尉として敗戦を迎え捕虜となる(ポツダム宣言受託後中尉として除隊)。1950年代前半にスタンダール『恋愛論』(宇佐見英治共訳)、アラン『海辺の対話 悟性の探求』『思想と年齢』、ヴァレリイ『若きバルク』(矢内原伊作共訳)などを訳者として角川書店から上梓し、1955年に大阪大学に赴任。同大で中村幸四郎教授に出会い、パスカルを中心とした数学史研究に集中。『パスカル全集』(人文書院 1959)第1巻収載の「数学論文集」訳出。1963年、パリ大学に留学し、「ロベルヴァルの複合運動論の研究」(Étude sur la théorie des mouvements composés de Roberval)で博士号取得。『デカルト著作集』(白水社 1973)第1巻収載の『幾何学』訳出。1982年、「パスカルの数学的業績」(L'Œuvre mathematique de Pascal) で日本学士院恩賜章受章。1989年、編者・訳者として『ホイヘンス』(科学の名著第2期10/朝日出版社)刊行。
以上、原先生の略歴を列記しただけでも、紆余曲折を経ながらライプニッツの数学論文の本邦初訳の推進者としての素地を涵養されていたことがうかがえます。
下村寅太郎先生は、何より数学の巻の上梓を心待ちにしておられましたが、ご覧いただくことかなわず、1995年、阪神淡路大震災から5日後の1月22日、92歳で他界されました。
原先生は、『みすず』「追悼・下村寅太郎」(1995.4)に、「下村寅太郎先生へのお礼とお詫び」と題した追悼文を寄稿しています。戦後虚脱状態にあった原先生は、下村先生の『無限論の形成と構造』(弘文堂 1944)に出会って以来同書に励まされてきたこと、逗子の下村宅でライプニッツ関連の原書の棚を見せられて圧倒されたこと、一昨年(1993)の手紙に「『ライプニッツ著作集』に数学作品を見ないうちは死にませぬ」とあったことなどを綴り、「まことに私は不肖である」と吐露されています。
それから4年後の1999年3月、ついに624頁の大著となった第3巻『数学・自然学』を上梓、第I期『ライプニッツ著作集』は晴れて完結したのでした。
その原先生も東日本大震災から1年9日後の2012年3月20日、93歳で他界。お父様は牧師だったそうですが、ご自身は無宗教とのことで、墓碑銘は最後に研究されていたケプラーにちなんで「宙」としたそうです。
第II期をスタートさせて完結間近なことを、原先生はじめ第I期を監修いただいた諸先生にご報告できないのが、かえすがえすも残念です。
(十川治江)
加減計算のできるパスカルの計算機パスカリーヌ
これに刺激をうけてライプニッツは加減乗除のできる計算機を発明(第3巻第1部4参照)