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ライプニッツ通信II

第36回 懐かしのライプニッツ・ビスケット


第II期『ライプニッツ著作集』全3巻も、いよいよ完結間近となった昨今、しきりに第I期の折々のことがフラッシュバックしてきます。

哲学にとどまらないライプニッツの発想の醍醐味がわかる選集を編みたいと思い、逗子の下村寅太郎先生のお宅を訪ねたのは、『世界のなかの科学精神』(撰集=日本の科学精神5, 1980)を上梓したころのことでした。『遊』7号(1973)で数理論理学の小特集を編んで以来、いずれはライプニッツに挑んでみたいと願ってはいたものの、契機をつかみかねていたのですが、同書に下村先生の「近代の超克の方向」の収載許可をいただいたことで、直接お目にかかってご相談する勇気を得ることができました。

下村先生は、柔和ながら鋭い眼光でじっとこちらを見据え、「本当に完遂するのでしょうね」と念を押されたうえで、哲学関係は山本信先生、数学関係は中村幸四郎先生にも監修者として加わってもらうよう提案されました。

下村、山本、中村3先生と早々と論理学関係での参加を表明された澤口昭聿先生に松濤の工作舎・土星の間に集まっていただき、第1回の編集会議を開いたのは、『遊』の休刊が話題にのぼりはじめたころでした。まだ巻構成も決まらず、全容は茫洋としていました。それでも4先生とも不安よりも昂揚感をみなぎらせていらして、頼もしいかぎりでした。中村先生の提案で、テクスト選びに困難が予想される数学関係の推進のため原亨吉先生に監修陣に加わっていただき、数学論関係は佐々木力先生、自然学関係は横山雅彦先生に依頼することが決まりました。

当初は漠然と8巻構成ぐらいを考えていたのですが、何度か逗子に通って下村先生と相談するうちに、ライプニッツらしさを出すには、中国学や地質学も欠かせないので完全数の10巻構成にして、最終巻を「中国学・地質学・普遍学」として1巻の論理学につなぎ、名称も「選集」ではなく「著作集」としましょうということになりました。中国学は当初予定した、知恵夫人の弟・川勝義雄先生が他界 (1984)したため、京大人文科学研究所の川勝先生の同僚・山下正男先生に依頼することになりました。

下村先生は「小豆餡の甘味は日本独得。西洋のマロングラッセではあの味はでません」と言われ、和菓子をお茶請けにされていました。京都ご出身なので、滅多な品を持参するわけにもゆかず、西田幾多郎先生ゆかりの金沢・森八の銘菓をおみやげにするのが常でした。知恵夫人はいつもお茶とお菓子を出されたあと、微笑みながら傍で静かにしておられましたが、たまたま下村先生が出てこられるのが遅いときに、部屋の換気のためにガラス戸を開けながら「あら、梅がひとりで咲いているわ。哲学者より偉いわ」と、つぶやいたりされるお茶目な一面もある方でした。

論理学・数学・自然学関係を検討する拠点は、中村先生の宝塚のお宅でした。原、澤口、佐々木、横山、および三浦伸夫先生などが何度か集い、現時点でなしうる最善のラインアップとしましょうとおおいに盛り上がりました。いつも長時間にわたる熱論となり、若菜夫人にはたいへんお世話になりました。

中村先生もお茶菓子は精選され、せんべいは銀座の松崎せんべいと決めておられ、東京に出たおりには必ず買って帰られていたそうです。

哲学・宗教学関係は、紆余曲折を経たのちに、下村先生ご指名の西谷裕作先生(『モナドロジー』『形而上学叙説』)以外は山本先生の采配のもと、最終構成と訳者が決まりました。

赤坂の山本先生のお宅を訪ねたおりは、洋子夫人がバイオリンを弾いて聴かせてくださったり、和洋の銘菓をコメント付きで提供くださったりしました。いろいろ曰くのある銘菓についてはすっかり忘れてしまいましたが、ある時出されたバールセン社のライプニッツ・ビスケットは、日本で低価格で入手できることもあり、その後も折にふれて賞味するようになりました。

山本先生に紹介いただいたころは、パッケージに「ドイツの哲学者ライプニッツ」にちなむ名前である旨が日本語で記されていたのですが、最近は見かけなくなって物足りない気がします。とはいえチョコレート・ライプニッツやミニ・ライプニッツ、動物・ライプニッツなど種類も豊富になり、ビスケットのブランド名として定着しているようです。

バールセン社の創業者、ヘルマン・バールセン(1859 - 1919)は、英国で出会ったバタービスケットをハノーファーで製造販売した起業家。ハノファーゆかりの偉人というだけで「ライプニッツ」の名を付したと伝えられていますが、バールセンの誕生日11月14日はなんとライプニッツの命日、ただならぬ縁で結ばれていたようです。

周囲に52の切れ込み、15のドットのあるビスケットのデザインも創業者自身が決め、ウィーン工房の芸術家E・J・マルゴルトに箱をデザインさせたこともあるそうです。また1912年には会社の健康保険基金を設立し、医師、看護師、介護スタッフの派遣制度を確立したとのこと。都市計画の構想もあったようですが、これは死によって断念せざるをえなかった由。

ライプニッツの多才ぶりには遠く及ばないにしても、ヘルマン・バールセンは起業家として懐の深い人物だったことがうかがえます。

(十川治江)


ライプニッツ・ビスケット
E・J・マルゴルトによる箱
ライプニッツ・ビスケット(1891, 上)とE・J・マルゴルトによる箱(1917, 下)




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