本が売れないのは、本を読まなくなったから——。ベストセラーが世間をにぎわせる一方、工作舎が刊行するような専門(教養)書は依然厳しい状況が続きます。実際、読者は離れてしまったのでしょうか?
そこで、工作舎の本の愛読者Oさんに、本について、読書についてお聞きしました。Oさんは科学史(科学文化論)の若手研究者。アカデミズムは専門書を産み出し、消費する場でもあります。そこに身を置く立場から感じたことを語っていただきました。
■専門(教養)書が売れない
——今の出版不況、特に専門(教養)書が売れないという状況について、研究者の立場からどのように思われますか?
危機感はすごくあります。なぜ本が売れないこと、本が読まれないことを憂いているかといえば、別に一億総白痴化でも学生の知的崩壊でも一向に構わないんですが、私の必要な本が読めなくなるのが困る(笑)。我々が必要としている研究書・専門書は売れる絶対数が少ないわけですから、出版業界全体に体力がないと出せないんですね。売れる本を出して、その利益で少部数の本の採算を合わせているのでしょう。そのための基礎体力すらなくなるのではと心配です。
——それこそ1980年代にはニューアカデミズムのブームがあり、ニューサイエンスもあり、人文書が飛ぶように売れた時代がありました。
一応ハッタリで読むとか、ミエで読んだりとか、読んだフリをするという読者も少なからずあったと思うのですが、そういうスノビズムが良くも悪くもなくなってしまった。例えば浅田彰の『構造と力』はベストセラーになりましたが、そのうちの何人が本当に読んだのだろう。とりあえず買って持ち歩いたという人も少なくないはず。半分はミエとして飾られることを前提に今までの出版活動はあったのだと思います。もちろん、そのようなミエの読書からほんとうに興味をひかれる対象を発見することもありますから、一概に悪いとはいえませんが。
——ここ数年、売れない状況が深刻化しています。
ミエで買う層が激減しているのかもしれません。しかもインターネット以降の世代は、情報はタダで検索すればいいと思っているようですが、情報は代価を払って買うもの、ましてや本は買うものです。アマゾンのユーズドブックで買えば安く入手できますが、私は新刊で手に入る本については、利用しません。出版社に利益が出なければ、欲しい本が出版されなくなりますから。
■研究者は本を読んでいるのか?
——大学の周りの方々は本を買いますか? 学生は教科書さえも買わないそうですが。
学生でも大学院生でもそうですよ。ある院生は「研究発表に重要な文献が図書館で貸し出し中だから、発表が遅れそうです」って平然と言ったりする。発表で使うような本が、1万円くらいで手に入るんだったら、買うべきでしょう。本は買わないし、読書会を開いても集まらない。かろうじてやる気があるのは一部の教員ぐらい。いや、教員のなかにも専任の職を得てしまうと、ろくに本を読まなくなる人もいます。
——研究者は本を執筆する立場でもありますね。
いきなりフランス語で単著を出すような先鋭的な若手研究者もいますが、大学の行政など身すぎ世すぎに走るあまり、それに喜びを見出す連中も少なくありません。また、研究者の文章が独りよがりなのも気になります。研究会の発表ですら、自分の研究がなぜ重要かを人に伝えられない。その傾向はフランス現代思想系の人たちに顕著だと思います。そもそもフランス人の文章がサルトル以降やたらと難渋となり、意味があるとは思えない。だからソーカル(*1)みたいな下らない奴につけ込まれるんですよ。内田樹がラカンを引っぱって、女の欲望は男の欲望を欲望することだ云々とか言っていますが、何もそんな言い回しを使わなくたってできる話、文体がもっともらしいだけです。まあ、内田氏の(引用でない)地の文はうまいですし、読める日本語と評価しています。
——読める日本語、わかりやすい言葉は重要ですね。
難解なのが必ずしもいけないというわけではなく、必然性のある難解さというものもあります。だが、難解さに淫してはいけない。良質の日本語で書かれた人文書や科学書は、教養人の文化、研究者の裾野を拡げる役割も果たします。それこそ高校生のときに村上陽一郎を読んで科学史研究の道に入るように。翻訳もすごく大事で、きちんとした日本語の本がなければ、ヨーロッパの思想なり歴史なりを研究しようというきっかけが生まれません。誤訳よりも悪訳のほうが罪が重い。多少のまちがいなんてあったって読めるんです。
——入門書となる新書は増えましたが、人文書に活気がなくなったように感じます。
単行本は雑誌の連載をまとめることが多いと思いますが、そのような連載を支える人文系の雑誌が少なくなったことも大きいでしょう。かつては『遊』や『エピステーメー』がありましたし、安原顕が編集長だった頃の『マリクレール』は蓮實重彦や伊藤俊治が執筆し、鷲田清一の名著『モードの迷宮』もあそこの連載から生まれました。今は鹿島茂が『プレイボーイ』に連載して突出していますね。あのあり余る素養をあんなに下世話に使うなんて、すごく立派。知的蕩尽とはこのことですね。人文系の研究者は、文人=オム・ド・レットルというアイデンティティを持てるかどうかが大事だと思います。私の先生の言葉ですが、「どんな論文であってもミューズ、詩の神がなければただの書類だ」と。
■本の未来はどうなるのか?
—一方で、コンピュータ化が進み、いつか本はなくなるとも言われますが。
コンピュータなら何でもできると楽観視してるからでしょう。私はコンピュータは、今のままでは使いものにならないと思っています。これは処理速度とか記憶容量の増大で解決する量的な問題というより、ある種の質的な限界にかかわる問題という気がします。大学図書館の検索システムさえ満足に動かない現状です。某書店の検索サイトでは、エドガー・アラン・ポーをポーと入力するか、ポウとするか、そんなことにも対応できない。人間だったら対応できるわけです。メディアとしての保存性も問題視されています。本は100年くらいもちますが、DVDなんて長くても20年くらいしかもたないうえに、再生するハードがなくなってしまう。余談ですがコンピュータが使われて50年になるので、そろそろコンピュータ・サイエンスのエピステモロジー(*2)も必要な時期になってきているのかもしれませんね。
——本は記録という意味だけではなく五感で感じるもの。紙の匂い、ページをめくる手触り、古くなったら古本ならではの味わいを感じて読むものであって、例えば明治時代の小説を、ダウンロードして端末で読む気がしません。
最近、岩波書店が夏目漱石の初版本をリプリントして当時の装幀をそっくり再現しています。あれがなぜ大事かというとテキストだけが本じゃないからです。どういう状態で流通していたかを再現しているわけですよ。
■モノとしての本
——本そのもののオブジェ感、モノとしての当時の姿を再現するのですね。
漱石の文章がどういう活字のどんな大きさで組まれて、どういう行間をもっているか、それで読んだら発見があるんですよ。現在の活字本はある意味で不幸ですね。今の学生に泉鏡花を読めと言っても、岩波や新潮の文庫本ではちょっと読めません。昔の人が読んでいた本は総ルビだったからよかった。たとえば改造社の円本(*3)も総ルビです。難しい坪内逍遥さえ音で読めれば、なんとなく意味もわかるし、国語辞典で引けます。そうやって昔はみんな勉強をしていた。そういう物体としてのメディア込みで考えるべきです。ルビひとつ再現できないWEBじゃ本の代わりにはなりません。また、本の置き場に困って家の中が潰れそうな人間の言うことではないですが、物体として本棚にあって目に入ることは大事なことです。本は読むだけじゃなくて、本棚に差して置くことも本なわけですよ。
——工作舎の会議室のように、本棚を総覧できるように置くのもいいのでしょうね。
物質として本、物体としての本ってもっと強調されてもいいと思いますよ。哲学で「他者論」と言いますが、ああいう抽象的な「他者」なんてどこにもいない。肉体と感情をもってある空間の時間と場所を占めている「他人」しかいないんだ。それと同じで、本も物質、物体ですよね。抽象的なテキストが単独で存在するわけではない。オブジェ、物体としての本はやっぱり必要で、抽象的な他者に対応するようなテキスト、それこそ青空文庫からコピー&ペーストされ反復可能な「エクリチュール」じゃなくて、物体としての「本」にインクで印刷された文字、それがあるんです。エクリチュールだなんてとんでもない。文章でいいんです。本って言いましょうよ。