第17回 就職論文にはじまる
ライプニッツ没後300年(2016)に第II期全3巻を完結させる──との意気込みで発進した第II期ですが、とりわけ本邦初訳論考がならぶ第2巻『法学・神学・歴史学』は手強く、なんとか2巻までを命日の11月14日には間に合わせることができました。
第1巻につづいて、第2巻も各部ごとに年代順にならべていますので、若き日から最晩年まで、ライプニッツの成熟プロセスと、「さすがライプニッツ」と頷かせる本領発揮ぶりを併せて楽しむことができます。
巻頭の『法学を学習し教授する新方法』(1667: ライプニッツ21歳)は、第1巻冒頭に収載した師トマジウス宛書簡(1663: 同17歳)についで若い時の著作。
アルトドルフ大学で学位を得て、同大学の教授職の申し出を受けたものの、「象牙の塔よりも実社会」を選んだライプニッツが、フランクフルトでマインツ選帝侯の宰相ボイネブルク男爵に出会い、マインツ選帝侯シェーンボルンが法改革を進めているので見解をまとめるよう勧められて、記憶を頼りに一気呵成に書下ろした、いわば就職論文。ライプツィヒ大学に提出した修士論文もアルトドルフ大学に提出した学位論文もテーマは法学だったので、生涯文字どおり「歩く図書館」だったライプニッツにとっては、自動筆記さながらに綴ることができたのでしょう。当時の版元は前途有望な若者に寛大だったのか、それとも自費出版だったのかわかりませんが(酒井潔氏は解説でその可能性を指摘)、マインツ選帝侯への献辞を付して印刷製本され、翌年初頭にライプニッツは直接選帝侯に拝謁して上梓した本を献呈し、晴れて宮廷顧問官になることができました。
ライプニッツは、後にエリザベト、ゾフィー姉妹のような女性貴族の触発者に恵まれることになりますが、ボイネブルクは最初に出会った男性貴族の触発者、メンターといえるでしょう。ボイネブルクは福音派からカトリックに改宗しており、マインツ選帝侯もカトリックでしたが、ルター派のライプニッツをこだわりなくとりたて、宰相がかかえる内政・外交課題の相談役としました。修士論文や学位論文、『結合法論』を出版していたとはいえ、無冠・無所属の若者の才能を認めたボイネブルクは、おそらくライプニッツに自分と似た資質を見出したのでしょう。
ボイネブルクはカトリックの側からの教会再合同にも熱心で、ライプニッツに『カトリック論証』(1668 – 71: 町田一訳著『初期ライプニッツにおける信仰と理性:《カトリック論証》注解』2015 知泉書館 参照)を書くように促しました。普遍教会の立場で信仰と理性の一致する調和にみちた宗教的 = 世俗世界を実現することこそ、二人の共通の願いであったことでしょう。こうした一連の鍛錬が、第2部に収載した神学の諸論考や、ボシュエとの往復書簡に活かされていくことになります。
ルイ14世のドイツ侵攻を未然に防ぐためライプニッツに『エジプト計画』を書くように指示したのも、それをたずさえ外交使節としてパリに行って直接ルイ14世を説得するように計らったのも、ボイネブルクでした。ルイ14世には謁見かなわず、ライプニッツがパリに出た1672年にはフランス軍がオランダに侵攻してしまうので、外交交渉は不発に終わりました。けれども、パリ生活なしには、ライプニッツの微積分の創始はなかった可能性もおおいにありますので、二人の出会いは恩寵というほかありません。
ボイネブルクは蔵書家としても知られ、その貴重な蔵書をトマジウスに貸し出すことも宮廷顧問官に就任した早々のライプニッツに許したようです。トマジウスは1668年10月のライプニッツ宛の手紙で「見知らぬ者に対する英雄」とボイネブルクを称え、ご篤志に甘えてはいけないので、フランクフルトの春の市までに本を返却する心づもりであり、今後ともわれわれの学問のパトロンによろしくと述べています(第1巻第1部1−3)。 フランクフルトの書籍見本市は、現在では年一回、秋に開催されていますが、当時は春秋二回開催されていたようで、書籍関係の業者だけでなく、蔵書家や研究者にとっても節目となるイベントだったことがうかがえます。1671年10月、マインツ時代のライプニッツが後年宮廷図書館司書としてつかえることになるヨハン・フリードリヒ公に出会った地もフランクフルトとされているのは、おそらく書籍見本市もかかわっていたことでしょう。
膨大なボイネブルクの蔵書は現在、マルティン・ルターが法学を学んだ大学としても知られるエアフルト大学の所管となっているとのことです。
日本ライプニッツ協会会長にして第II期『ライプニッツ著作集』の監修者、また第2巻、第3巻では訳者のお一人でもある酒井潔氏は、日ごろ沈着冷静を旨とする方ですが、ことライプニッツに関しては熱をおび、『法学を学習し教授する新方法』の解説でも、ハノーファーのライプニッツ文書室でレクラム文庫より小さいコンパクト判・192 頁の同書の初版本と2刷に出会った感激を小見出しに「 ! 」を付して表されています。酒井氏の仲介により、ライプニッツが2刷をばらしてノートに貼付け、1頁目の余白にびっしり書き込んだ手稿も、ライプニッツ文書室の許可をえて手稿頁冒頭に収載することができました。
2刷は、初版の翌年、つまり就職できた年の刊行ということですので、初版はしかるべき読者をえたわけで、新参者ライプニッツの宮廷での存在感を高めるのにおおいに貢献したことと思われます。
『法学を学習し教授する新方法』は二部構成。今回訳出したのは、法学をユークリッドの手法にならい定義と命題を明らかにして論証可能なものする第二部「法学のみに限定された特殊部」ですが、第一部「一般的で、その他の学問分野に共通する部。学びの基礎一般について」は、長綱啓典氏による梗概を収載しました。「快」を重視したライプニッツの学習および教育のノウハウ論は、今日の私たちにとっても納得できる内容です。
没後300年で沸き立っているのはハノーファーを中心とするドイツ本国と日本ライプニッツ協会および工作舎周辺のみかと思ったところ、『数学文化』26号「特集ライプニッツ没後300年」が刊行されました(日本評論社)。上野健爾「ライプニッツと無限小解析」、林知宏「パリのライプニッツ」、高橋秀裕「ライプニッツとニュートン」、いずれも第I期『ライプニッツ著作集』をふまえた他では得がたい精緻な論考です。今は亡き下村寅太郎、中村幸四郎、山本信、原亨吉の監修四先生にご覧いただけたら、さぞ喜ばれたことでしょうと四先生のご遺徳を偲ぶばかりです(十川治江)。
『法学を学習し教授する新方法』(1667)第2刷(1668)
第1頁目へのライプニッツの書き込み