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ライプニッツ通信II

第27回 空気工学の偉才パパン

第3巻『技術・医学・社会システム』劈頭の『奇想百科:新趣向博覧会開催案』(1675, 佐々木能章訳)で、ゲーリケの24頭の馬を使った真空実験や「お天気小僧」と呼ばれる気圧計がとりあげられているように、空気はライプニッツの時代、第一線の科学者たちがしのぎを削る最先端のテーマであるとともに、見世物としても大人気の演目の主役でもありました。

ゲーリケは、44歳の1646年(ライプニッツの生年、30年戦争終結の2年前)から30年にわたりマクデブルク市長をつとめ、戦乱で荒廃したマクデブルク市の復旧に尽力した人物ですが、その推進力となったのが、自ら発明した真空ポンプを使った一大イベントでした。24頭の馬を使った真空実験は、1663年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(ゾフィー・シャルロッテの夫フリードリヒ1世の父)の前で披露されたもので、「空気の威力」を初めて目の当たりにした人々の驚嘆は、今夏のH-IIAロケットによるみちびき3号機の打ち上げをしのぐものがあったと思われます。

キルヒャーの奇想科学の協力者にして普及者カスパー・ショットの『流体・空気力学』(1657)でゲーリケの1656年の16頭立ての馬による真空実験を知ったロバート・ボイルは、ロバート・フックを助手として空気ポンプの製作にとりかかりました。何しろ真空の存在そのものが疑問視されていた時代ですので、真空実験を公開することができれば、新科学を一般にひろめ、しかるべき筋からの研究予算獲得も楽になろうというものです。

土星の輪の発見で工作舎とは深い縁となったオランダのクリスチャン・ホイヘンスも、諸学アカデミー外国人会員としてパリに招聘される前から空気ポンプの開発研究にとりくんでいました。

1672年にパリを訪れたライプニッツが、ホイヘンスから当時最先端の数学を学び、またたく間に微積分算を創案したことは、第I期第23巻の『数学』で原亨吉先生が克明に明らかにしてくださいました。

そのホイヘンスの自宅で、パリに出たばかりのライプニッツが一歳年下の偉才と出会い、後年共同研究を重ねるようになったことを、第3巻収録の『パパンとの往復書簡』の訳者解説で池田真治氏が詳述されています。

ユグノーの家庭に生まれたドニ・パパンは、医者の卵としてパリに出ますが、1671年にホイヘンスの助手となり、73年夏から空気ポンプや計測器など真空実験に必要な機器の製作にとりくんで、めざましい才能を発揮。実験の精度をあげていちやく真空研究の最先端ステージに躍り出ました。著書『真空に関する新たな実験』(1674)で、パパンは以下のように新時代の到来を告げています。

「この種の研究をとりわけ好む世紀に私たちは生きている。真空をつくりだす機械をきわめて単純に、かつ簡便に製作できるようになったことで、だれもが自分の機械を持てるようになったのだから、時の経過とともに私たちがこれまでしてこなかったような、新しいことがらについての実験がおこなわれていくのはまちがいないだろう」(S・シェイピン+S・シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ』吉本秀之監訳、柴田和宏+坂本邦暢訳、名古屋大学出版会)。

「パパンの機械はホイヘンスの機械よりも十倍安く、より堅固である」と太鼓判を押したのは、当時の空気研究の権威エドム・マリオットでした。「気体の体積は圧力と反比例する」という今日「ボイルの法則」と呼ばれる法則は、1661年にイングランドの空気研究の第一人者のひとりヘンリー・パワーが最初に定式化したそうですが、フランスではマリオットが定式化したものとして、「マリオットの法則」と呼ぶ人もいるそうです。

パパンは類い稀な真空技術を売物に、ホイヘンスに紹介状を書いてもらってイングランドに渡り、1676年から王立協会でロバート・ボイルの実験助手をつとめるようになります。

もともと病弱だったボイルは、パパンの才能を認め、ほとんどの実験と執筆を任せるようになりました。

さらに1679年からパパンはロバート・フックの実験助手をつとめ、さまざまな実験を重ねるなかで、水の沸点が圧力に依存することを発見し、圧力調理器「ダイジェスター」を発明します。安全弁のついたこの調理器とボイルおよびフックとの優れた共同研究が認められて、晴れて王立協会フェローとなりました。

ライプニッツはこの硬い肉や骨も食べられるようになるハイテク調理器を入手してもらおうと、宮廷の犬たちが骨の所有権を主張する寓話『犬たちの要求』を君主エルンスト・アウグストに献じています。

王立協会フェローとなったものの、実験助手の待遇は芳しくなかったのでしょう。パパンはパリのホイヘンスのもとに戻ったり、ヴェネツィアに渡って同地で実験を披露して王立協会のような学者の共同体づくりを模索したりしたものの活路は見出せず、再びロンドンに戻るほかありませんでした。そうこうするうちに14世によりナントの勅令が廃止され、ユグノーのパパンは故国に戻ることはできなくなってしまいました。

1687年、パパンはマールブルク大学の数学教授として招聘され、ヘッセン=カッセル方伯領に移ります。この地で、ライプニッツが創刊にかかわった『ライプツィヒ学報』にライプニッツの活力の考え方に異議を唱える論考や、圧力調理器の原理を応用した蒸気機関のアイディアを発表して、ライプニッツともひんぱんに手紙をやりとりするようになります。

第3巻に収録したのは、主に蒸気機関の開発をめぐる書簡ですが、もともと医学を志したパパンと挨拶がわりに医療をめぐる本音を吐露し合っていることも一興です。

パパンとライプニッツの蒸気機関に関する共同研究の成果は王立協会の『哲学紀要』にも報告されましたが、イングランド政府は、トマス・セイヴァリが設計した蒸気機関に特許を与え、セイヴァリの「新発明」を公認のものとしました。パパンとライプニッツは、セイヴァリの蒸気機関が原寸大ではうまく機能しないことを見抜き、王立協会での公開実験を申し出ましたが、却下されてしまいます。

それならば直訴するほかないと、パパンは家族を残して単身ロンドンに渡り、王立協会への復職を願い出たものの、協会長のニュートンに拒否されてしまいました。パパンの後に微積分の発見の優先権を争っていたライプニッツの姿がちらついたのでしょうか。没年すらも定かではないまま、悲運の発明家は英語圏の文献が圧倒的に多い蒸気機関開発史の本流からはずされてしまいました。

でも決して永久に消されたわけではありません。19世紀末に意外な人物が、再評価の光をあてることになりますが、それが誰かは池田氏の解説をお楽しみに。

(十川治江)


ドニ・パパン
ホイヘンス、ボイル、フック、ライプニッツと
共同研究を重ねたドニ・パパン(Denis Papin, 1647 – 1712?)





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