第28回 ハルツ鉱山の光と影
ライプニッツ心酔者にとって、ハルツ鉱山開発の経緯はいささか気後れのするテーマです。
第I期を編集中に、監修者の山本信先生より、ハルツ鉱山開発には、ペーター・ハルツィンクという日系の先任者がいたという歴史学の岩生成一先生の小論を紹介されたのが、彼の名を知ったはじまりでした。エイトン『ライプニッツの普遍計画』では、ハルツィンクによる水循環システム案を批判して鉱山開発を任されたにもかかわらず、同様の水循環システム案をあたかも自分の新しいアイディアであるかのように持ちだしたライプニッツは、鉱山の専門技師たちには「よこしまなものと映ったことは確かである」、とまで記されているのです。
第I期では6・7『弁神論』8『前期哲学』9『後期哲学』と最も多くの翻訳をにない、第II期では監修者にして翻訳者としてライプニッツに膨大な時間を傾注されている佐々木能章氏が、『ライプニッツ術』「ハルツ鉱山開発」の注として、「世界中のあらゆることに関心を向け、中国についてもあれほど深く研究をしていたライプニッツに、日本についての記述はわずかしかない」のは、ライプニッツ自身、ハルツィンクに対してやましい気持があったのではないかと付記せざるをえなかったのも、忘れがたいことでした。
ペーター・ハルツィンクは、1637年、オランダ東インド会社の平戸館にいたドイツ人カール・ハルツィンクと平戸の豪商の娘との間に生まれ、鎖国政策により故国を離れざるをえなくなり、生涯帰国することはかなわぬまま、1680年、42歳の若さでクラウスタールの自宅で亡くなりました。
ユグノーとしてフランスを追われたピエール・ベールやドニ・パパンは、それぞれ成人になりいくばくかの仕事をして故国に名を残したのちの亡命だったので、まだ良かったのですが、異教徒の父の子として4歳で故国を追われ、終末の地ドイツでは異教徒の母の子として母方の家名も公けにできなかったハルツィンクのことを知る人が日本にほとんどいないのも、無理もないことでした。
それでもネットで追跡してみると、1996年7月16日、日本経済新聞の文化欄に「300年続く日系人の奨学金:父の故郷ドイツで受け継がれた遺志」と題してハルツィンクのことを紹介した在独日本大使館専門研究員・臼田恵子氏の記事が掲載されていたことが明らかになりました。要旨は以下のような内容です。
デュッセルドルフにあるデュースブルク大学の学籍簿にハルツィンクはラテン語で「ペテルス・ハルツィンギウス.ヤポネンシス〔日本人〕 形而上学と物理学を履修」と記す。学業を終えた彼は東インド会社に勤務した後、ハルツの鉱山開発に携わるようになり、1672年には鉱山監督官に任ぜられ、30年戦争で荒廃した町の再建に取り組む。採掘や鋳造の新技術を提案するも病死。生前に遺書を記し、ハルツの鉱山労働者の子供たちのための奨学金と、自らがラテン語を学んだメースの母校「アドルフィーヌム」の後輩のための奨学金を残した。前者は第一次大戦後のインフレで1923年に解消したが、後者は「ハルツィング基金」として健在で、1680年に発足以来原資の運用のみで、外部からの資金導入なしに、今日なお若き学徒を支援し続けている。
ペーター・ハルツィンクの名を記憶するかどうかはさておき、300年以上ドイツの若き学徒を支援しつづけている日系人がいたというこの記事は、多くの日本人の琴線にふれたことでしょう。残念ながらというべきか、幸いにもというべきか、記事にはライプニッツへの言及はありませんでした。
今世紀に入り、数学史家の鈴木武雄氏(『数学教育研究』40・41, 2011・12)や第I期2・3『数学論・数学』の訳者でもある三浦伸夫氏(『数学の歴史』放送大学教材2013)などにより、ハルツィンクが数学者としても優秀であったことが明らかにされました。ハルツィンクが数学を学んだのは、デカルト『幾何学』のラテン語訳を出した(1649)オランダ・ライデン大学のフランス・ファン・スホーテンのもとでした。スホーテン・スクールには、後に政治家として名をなすヤン・デ・ウィットやクリスチャン・ホイヘンス、ド・ボーヌなど、逸材が集まっていました。スホーテンは弟子たちと討論を重ね、デカルト『幾何学』の第二版に詳しい注釈をつけて刊行します(1659-61)。この第二版こそ、ライプニッツがパリで猛勉強し、ニュートンも学んで、それぞれ独自に微積分学を創始することになるのです。
スホーテンは、このデカルト『幾何学』第二版に、ハルツィンクのことを「とくに数学に秀でた門弟で最も学殖ある日本青年ペトルス・ハルツィンギウス」と称えているとのこと。
鈴木武雄氏によれば、ハルツィンクはヨハン・フイードリヒ公のもとで鉱山監督官になった翌年には宮廷顧問官ともなっており、まさしくライプニッツとは立場が重なっていたのです。
ハルツ地方オステローデの聖ヤコビ教会に埋葬された彼の墓碑の中央には以下の彼自身の言葉がラテン語で記されているそうです(岩生成一訳)。
インドはわが母とわれを生み、ヨーロッパはわが父を生んだ。
最初からわが運命はいろいろ変転した。
われはアジア諸国やアフリカや、限りない大海原を目にし、
二度にわたって子午線を越えた。
われは父の国を知らんとして、幼にして故郷を離れた。
しかしわれは本当の故郷を認めることが出来なかった。
そこで五大州を歩き廻ったが、終に天国を見出した。
1671年11月6日ツェルレフェルトにおいてしたたむ
ハルツィンクの多彩な才能や遺徳が明らかになるほど、他者から最善のものを継承することに長けたライプニッツが積極的にかかわらなかったことが惜しまれます。二人はそれぞれ心の襞の奥底に闇をかかえたまま、すれちがってしまいました。
第3巻『技術・医学・社会システム』第1部3「ハルツ鉱山開発」(大西光弘訳)に収載したヨハン・フリードリヒ公、エルンスト・アウグスト公の二代にわたる君主への献策、水平型風車や風車の自動制御システムの考案など試行錯誤重ねながら、ライプニッツは『形而上学叙説』(1686)を書き、ハルツのフィールドワークをもとに『プロトガイア』(1691)を書くことになります。
(十川治江)
ペーター・ハルツィンク(1637 – 1680)の墓碑