第26回 ヴァイゲル先生の光
ようやく第3巻『技術・医学・社会システム』の第1部と第2部を入稿することができました。第II期著作集の楽しみは、同時代の全方位の出来事に向けられたライプニッツのアンテナの感度のよさを存分に堪能できること。第3巻劈頭の『奇想百科:新趣向博覧会開催案』(1675, 佐々木能章訳)は、その好例といっていいでしょう。
パリのセーヌ川で見た水上走行機械の展示に刺激を受けて綴った同論考は、基本的には、新しい技術や珍品の博物学的展示により一般の人々の知的好奇心を喚起し、発明家や探検家の意欲をかきたてて科学アカデミーの充実に寄与することを主張しています。
例としてあげられるのは、ゲーリケの24頭の馬を使った真空実験や「お天気小僧」と呼ばれる気圧計、キルヒャーの珍品コレクション「驚異の部屋」、スワンメルダムの昆虫、第1巻マルブランシュからの書簡(5-9)でも言及されていたテヴノーの工芸……などなど。なかでも意表をついたのは、エアハルト・ヴァイゲルの地球儀・天球儀でした。
佐々木氏の訳注によれば、現在確認されているだけでも、ヴァイゲルは18個もの地球儀や天球儀を製作。1659年から61年にかけて、イエナでは直径5.4 メートルにもおよぶ鋼板製の巨大天球儀、中に人が入っていわばプラネタリウムのように星を観察できる装置を製作してイエナ城の屋根に設置したそうです。
実はヴァイゲルは、イエナ大学の数学教授のかたわら、1660年、イエナ城建設の監督をつとめ、翌年は建築主任として采配をふるっていました。その総仕上げとして屋根にプラネタリウムを置いて、ランドマークとしたのです。
1663年の夏学期、ライプニッツはイエナ大学で、エアハルト・ヴァイゲルの数学の授業を受けているので、このランドマークを毎日見あげていたはずです。この目のご馳走が17歳になったばかりの若者のバロック精神を涵養しないわけはありません。
当時37歳、働き盛りのヴァイゲルは、また学者の共和国のリーダーとして、「探求者の会」という集いの会長をつとめ、毎週新旧の書物についての論評と討議を行って若い世代を触発していました。当然ライプニッツも参加して、おおいに刺激を受けたことでしょう。
ヴァイゲルは、『エウクレイデスにもとづいて再構成されたアリストテレス的分析論』(1658)において、数学的な論証法を用いることによって、哲学をスコラ学者の言葉の争いから解放し、体系的一貫性をもつ普遍学の確立を提唱していました。
ライプツィヒ大学入学前のニコライ学院在学中に人間思想のアルファベットを着想して普遍学の火種をかかえていたライプニッツが、ヴァイゲルのアイディアに燃えたたないわけもありません。
ライプツィヒに戻って書いた修士論文『法から集められた哲学問題の試論』(1664)では、ヴァイゲルの学恩に感謝していますし、19世紀に開花する記号論理学の先がけとなった『結合法論』(1666)では、ヴァイゲルの薫陶を受けた弟子のひとり、シュトルムの『普遍概念あるいはエウクレイデス的形而上学の手引』(1660)に言及しています。
アルトドルフ大学に提出して「法学博士」の学位をえた論文『法における錯綜した諸事例について』(1667)では、ヴァイゲルを引用し、法においても答えは必ず存在する。錯綜した事例においては、自然的理性と市民法を限定し決定する自然の正義と国際法の原理にもとづく判断の助けを借りるべきであると主張しています。
記憶を頼りに修士論文をバージョンアップした第2巻『法学・神学・歴史学』冒頭の就職論文『法学を学習し教授するための新方法』(1667)では、ヴァイゲルのもうひとりの弟子、プーフェンドルフの『普遍法学原論 全二巻』(1660)をあげて、法学の厳密な指導法の例としています。
ヴァイゲルは終生イエナ大学の教授職にありましたが、1684年、大学とは別に自宅に技術道徳学校を設立して、徳性の高い技術者の養成にも力を注いだようです。
晩年になってもライプニッツはヴァイゲルとその弟子たちのサークルを懐かしんでおり、プーフェンドルフについては『人間知性新論』(1705)第4部20節でも言及し、プーフェンドルフの著書を師の思想に十分に適合した著作と評価しています。
シュトルムについては『弁神論』(1710)第2部212節で、師に励まされて「数学的でない問題における正確で一般的な規則を提示しようとしていた」と認めています。また同書第3部38節では、ヴァイゲルの数理哲学やみごとな発見、暦の改革案などに言及しています。
エイトン『ライプニッツの普遍計画』によれば、ヴァイゲルは暦の印刷販売を天文台の財源とすることを考えていたとのこと。これはイエナ城の上のプラネタリウムをさすのでしょうか。ヴァイゲルは学者の狭い世界にはおさまりきらず、総合プロデューサーのような活躍をしていたバロック人でした。ライプニッツも師にならい、ベルリン諸学アカデミーの財源に暦の印刷販売を提唱しています。
最晩年の『中国自然神学論』(1716)では、ピュタゴラス派のテトラクテュスにヒントをえて4進法を提唱したヴァイゲルを紹介しています。ライプニッツは1683年前半、ヴァイゲルの『テトラクテュス:算術と論証哲学の顕著な簡略化』(1673)の抜書きをして注釈をつけており、2進法を考案するさいにもヴァイゲルの光のもとにあったのでした。
ピュタゴラス派の純粋性と現実世界を楽しみながらよき方向に変えようとするあくなきバロック精神──ヴァイゲルの光は、ライプニッツの最深奥まで届いて彼を励起しつづけていました。
ところで『奇想百科:新趣向博覧会開催案』には、付記として、ゲームアカデミー(賭博場)の構想まで記されています。ライプニッツ君、なかなかやります。
(十川治江)
ヴァイゲルの天球儀(1699; 英国国立海洋博物館)