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ライプニッツ通信II

第39回 モナドの消息


第II期『ライプニッツ著作集』全3巻を編集中に気がかりだったのは、訳者の諸先生(全員日本ライプニッツ協会会員!)が注や解説で丁寧に第I期『ライプニッツ著作集』からの引用や参照頁を示してくださっているにもかかわらず、当該巻が品切状態になっているものがあることでした。

第I期を完結した1999年以来、印刷現場の環境は激変しており、当初の造本仕様のまま増刷することは採算上不可能となってしまったうえに、紙の本の将来そのものが五里霧中状態なので、第I期はすべてデジタル版にすることも検討してみました。検索の利便性やコストが大幅に下がる利点はありますが、モノとしての存在感を喪ってしまうと、第I期が成立した経緯までも消えてしまいそうな気がして、本文のレイアウトはそのまま活かした新装復刊をすすめることにしました。

第1弾は、長い間品切状態だった第8巻『前期哲学』(9月上旬復刊予定)。「表出」の哲学を開示した『形而上学叙説』『アルノーとの往復書簡』が収録されており、第II期第1巻『哲学書簡』収載『初期アルノー宛書簡』にはじまるアルノー=ライプニッツ間の実りある展開を示す内容です。

第8巻に収録した1702年までの書簡・著作には「モナド」の語は出ていませんが、河野與一は「モナド」の初出について、1696年9月3日付のミケランジェロ・ファルデッラ宛書簡であるとしていました。第8巻後半に収録された文章の背後には、「モナド」が胚胎・展開しつつあったのです。ファルデッラ(1650 – 1718)は、ライプニッツがドイツに戻った翌年(1678)にパリに行き、アルノーやマルブランシュとの対話・討論からデカルト哲学を受け入れるようになったイタリアの天文学者・数学者。エイトンによれば、ライプニッツはヴェルフェン家の歴史調査のためにイタリアを訪れた1690年、ヴェネツィアで直接会って話しています。ドイツに帰国後も書簡をひんぱんに交わし、ハノーファーの図書館に加えヴォルフェンビュッテルの図書館長に任ぜられたライプニッツは、ルドルフ・アウグスト公爵に『図書館計画』(第II期3巻3部9)を提出するかたわら、ファルデッラを同地に招こうと試みたようです。

河野説が提示されたころはもちろん、第I期編集中もアカデミー版の刊行はほとんど進んでいませんでしたが、2004年に第III系列(数学・自然科学・技術書簡)第6巻が刊行され、「モナド」の初出は、おそらく1695年7月22日のギョーム・ド・ロピタル(1661 – 1704))宛書簡であるとされました。同巻はウェブ版も公開され、ロピタル宛書簡の追伸の末尾が「モナス」と結ばれているのを確認することができます。ロピタルは第II期1巻『哲学書簡』収載のマルブランシュからライプニッツへの書簡(第1部5-10; 1692.12.8)で、「ぜひ貴方に手紙を書きたい」人物として12月14日 付の当の手紙を同封して紹介され、文通を重ねることになったフランスの数学者です。ロピタルは無限小解析をめぐってヨハン・ベルヌイやカトラン神父らをまきこんで討論を重ね、最終的にはゾフィー宛の書簡(第II期1巻2部1-1; 1696.11.4)にも記されているように、ライプニッツの先駆性を認めるにいたるのです。モナドは、こうした無限小をめぐる切磋琢磨のうちに胚胎したと思われます。

2013年にはアカデミー版第II系列(哲学書簡)第3巻も刊行され、河野説が示したファルデッラ宛書簡で「モナド」の定義がなされていることもウェブで確認できるようになりました。

紙の本にこだわりながら、ウェブの恩恵を享受することには少々葛藤がないわけではありませんが、手書きで1300人にもおよぶ相手と文通していたライプニッツなら、嬉々として活用しつくしたはずと思いかえすことにしています。

すべての被造物がそれぞれの被造物と、またそれぞれが他の被造物と結び合い適応し合っているので、どの単純実体も他のすべての実体を表出するさまざまの関係をもち、したがって宇宙を映す永遠の生きた鏡なのである(西谷裕作訳『モナドロジー』第I期9巻)。

ライプニッツにとって、「モナド」とは、世界システムを起動する原点であり、他のモナドと表出しあうことにより宇宙を永遠に映しつづけるものでした。

この魅力的な世界観と華厳経の事々無礙法界(じじむげほっかい)との照応関係に、日本のみならず世界で初めて言及したのは、村上俊江(1871 – 1957)が東京帝国大学に提出した卒業論文「ライブニッツ氏と華厳宗」であったとのこと(酒井潔“『華厳経』と『モナドロジー』:村上俊江によるライプニッツ受容”『東洋文化研究』16号 2014)。時は日清戦争終結の翌年(1896)、ライプニッツの邦訳はまったくなかった時代のことです。村上は教育者として一生を送ったため、哲学史に名を残すことはありませんでしたが、没後「ライブニッツ氏と華厳宗」は『華厳思想』(川田熊太郎監修・中村元編集、法蔵館 1960)に収載され、公刊されたそうです。

この酒井論文もウェブでアクセスしたものですが、もう一件、『科学』の南方熊楠特集の興味深い小論にも遭遇しました。南方熊楠(1867 – 1941)はロンドン滞在中の1894年9月22日、日記に「ライプニッツの如くなるべし、茶茶禁烟、大勉学す」と記しています(第I期2巻投込「発見術の栞」)。この特集号に系統樹ハンターとして活躍めざましい三中信宏氏が「南方曼陀羅:世界を体系化するある思惟の図像的背景」と題して寄稿しているのです(『科学』2013.8)。ライプニッツへの言及はありませんが、華厳経つながりで以下に要点を紹介します。

三中論文は、鶴見和子が密教の「曼陀羅」に見立てた南方熊楠の土宜法龍宛書簡(1903.7.18ほか)中のネットワーク図3点を示して解説した後、華厳経の宗教的啓示を受けて動的分類学に導かれたという植物学者早田文蔵(1874-1934)の高次元ネットワーク図を紹介しています。早田の図は、複雑な遺伝子ネットワークの発現により多様な生物が出現する自然界を表しており、この宝珠が互いに反射しあっているさまは、宮沢賢治(1896-1933)の童話「インドラの網」を想起させるとさらに筆を遊ばせます。系統樹のようなツリー構造に比べ、網状のネットワーク構造ははるかに複雑で解読も困難だが、迷宮のような発想者の世界観をたどるアリアドネの糸としうると結んでいます。

なお「宮沢賢治のモナドロジー」については、酒井潔『ライプニッツのモナド論とその射程』(知泉書館 2013 )でも一章をもうけて論じられているので、興味のある方はご参照ください。

(十川治江)


早田文蔵の高次元ネットワーク
早田文蔵の高次元ネットワーク
(臺灣總督府民生部殖産局編『臺灣植物圖譜・臺灣植物誌料』第拾巻 1921)





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